なにも知らなかった無知で無垢なこどもに。
よろこびを教えるのは、私。
月は、夜の国の王室の子として、幼いころから厳しくしつけられ育てられてきた。
父親である夜神の恥にならぬよう、何処の国のどの王族とならび立ったときにも、見劣りせぬよう。
礼儀作法から所作一つひとつに至るまで。
月の身体にすっかり染みこんだそれらは月をよりいっそう眩しく惹きたてる。内面の美しさは外見にも
あらわれる。どこに行っても誰にたいしても、やわらかな微笑とともに月は挨拶というものを欠かさない。
しかし、国や人種がちがえばおのずと文化もちがう。
夜の国には、キスという習慣はなかった。
両親や妹の粧裕とさえ、額や頬におくる軽いキスすら、月には経験がなかった。周囲にいる人間も誰も
月におしえてくれなかったから、当たり前でもある。
氷の海を越え、国交のために夜の国にやってきた隣国の王子に、謁見の間ではじめて挨拶のキスをされたとき。
飛びあがるほど驚いた。
親愛のあかしでもある皮膚と皮膚を触れあわせる行為。
正直、きもちわるい。
やんわりと拒絶の意を表した美しいひとに、隣国の王子は酷く傷ついた哀しい目をした。月への慕情と微かな
欲望でいろどられた青年の瞳を、間近でみるのがとても嫌で。
月はそれ以来、挨拶の際にはかならず利き手を差し出すようにしている。
キスではなく友好の握手のために。
たまに握手を求めたつもりがその手を取られ、甲に口づけされたり、引きよせられ抱擁されるハプニングも
起きたけれど、キスよりはよほどマシ。
ようするに。月はスキンシップが苦手なのであった。しかし本人にその自覚はあまりない。
月がすすんでキスするのは、可愛がっている黒鷲のリュークだけである。雛のときから大切に育ててきたリュークは
いつも月のそばにいて、ペットであると同時にかけがえのない親友だ。
黒々と艶光るくちばしは撫でるとひんやりしていて気持ちいい。だから月のなかでの朧なキスのイメージは、
硬質で澄みわたる、硝子みたいな無機質なものだった。
ずっと。
それがこんなにも、熱いなんて。
高い見張り台のうえで強い海風に弄られながら、交わす口づけ。
冷えた肌も乱れる髪も気にならなかった。
ふれあった箇所からつぎつぎと発熱した。
男の唇はすこしカサカサしていてあたたかい。リュークとはぜんぜん違うな、とボンヤリ思う。
背中にまわされた腕も、頬をつつんだ掌も。温かくて気持ちがよくて。幾度かしっとり押しつけあう。
下唇を啄ばまれて、月はくすぐったくて笑いそうになった。このかんじはリュークとすこし似ている。
目を開くと男がじっと月を見ていた。
はじめてなんですか?
なにをきかれているかわからなくて首を傾げた。はじめて?なにが?キスが?はじめてじゃないと思うけど、
はじめてのような気もするよ。
きもちのいいキスは。
ふたたび唇をふさがれ、今度は男の舌が侵入してきたのでさすがに驚く。咄嗟に両手で押しのけようとしたが、
男のヒョロリとした身体は意外にビクともしない。胸に抱かれて息がつまった。呼吸がくるしい。
上顎も下顎も丹念になぶられる。こすれあう舌先。濡れてぬめった感触におもわず引っこめようとすると、
奥まで追いかけてきて絡めとられた。つよく吸われ根元からしびれる。痺れは、くびすじを伝わり背中を走り
足許にまでおよんだ。カクカクと膝がふるえた。ギュッと、指先を握った。
熱い。
ほんの短い時間だったけれど。たぶんこれが生まれてはじめての、
本当のキス。
そのあと笑いながら男が言う。
私が教えてさしあげますよ。
ひとを好きになるという事がどういうことなのか。キスもセックスも、好きならいずれしたくなります。
余計なお世話だと赤くなりながら怒ってみせた月だったけれど、じつはそれ以来ずっと、その言葉が
こころの内で燻りつづけていて。
───好きならいずれは相手が欲しくなるもの。
…ほんとうに?
「竜崎。仕度できてるよ」
浴室から部屋にもどった月が声をかけると、あからさまに嫌々な雰囲気をただよわせて竜崎がソッポを
むいていた。
子供のような態度と、拗ねた表情。
月は呆れてため息をつく。
「せっかくワタリさんが用意してくれたんだ。早く入って」
「必要ありません。だいたい、私は月くんとちがって湯はきらいです」
「わがまま言うな」
床のうえで直に膝をかかえ、丸まって駄々をこねる姿はとてもじゃないが海賊船の長とはおもえない。
男のなさけない背中をつい蹴っ飛ばしてやりたい衝動にかられたが、もちろん、月はそんな無作法なマネはしない。
かわりにドレスの腰に手をあて厳しく叱った。
「何度も言っただろう。熱も下がって体調がよくなったら、こんどは風呂をつかって肌を清潔にしないと。
まんいち不衛生にして傷口から黴菌でも入ったらどうする気だ」
「傷は消毒しているから大丈夫です。それに湯を使わなくても、身体は拭けば綺麗になります」
「じゃあ拭いてこいよ。湯に浸かるのが嫌ならそれはいいから、ちゃんと全身くまなく丁寧に。
絹の海綿も蜂蜜の石鹸も花のオイルも、必要なものはぜんぶそろってるよ?」
「お母さんみたいですね月くん」
「竜崎!」
手のかかる子供はオマエだろう。
なんのかんのと文句を言っているが、竜崎はただ面倒くさいだけなのである。
月は大の風呂好きであるが、ふだん海の上で生活している海賊たちには湯をつかう習慣はほとんどない。
ながい航海のなかで真水が貴重品であると同時に、海にもぐれば身体についた汚れはたいがい落とせるから、
あまり必要ないのである。せいぜいが布を湿らせ拭うくらいだ。
通常はそれで良いと月もおもう。しかし今回ばかりは、どうしても竜崎には風呂をつかってもらいたかった。
さきの戦いで竜崎のうけた深手。毒矢による高熱もおさまって、怪我の具合も悪くはない。ひとまず安心している。
だが、気温もたかく湿気のおおい船上で、治りかけの傷は要注意だ。うっかりすれば雑菌が入り命取りにも
なりかねない。まして海水に浸かるなど問題外。極力、皮膚を清潔にたもち、消毒も欠かせない。
月はそう考えているのに。
いちど。それでは汗を流してきますといって波に飛びこもうとした竜崎の顔を、ほんとうに拳で殴ったこともある。
ケロリとした男とは対照的に月の手は痛くていたくて、オマケに一回はいっかいですと訳のわからないまま濃厚な
口づけを施されて、二度とコイツの心配なんかしてやるものかと思ったものだ。
「そんなに風呂は嫌か」
「熱いの苦手なんです」
ダメだこれは。
ガックリ肩をおとすと、すこしだけ思案してから奥の手を出すことにした。
「手伝ってあげるよ」
「…はい?」
「髪とか身体、洗うの手伝ってあげるよ竜崎。いっしょに入ろう」
男が自分に欲情していることなんて嫌というほど知っている。誘いはぜったいに断らない。
対して自分自身の気持ちは、月はいまだ、曖昧なままだった。
けれど竜崎の怪我を気づかう、この想いはほんもの。
案の定、男はグルリと目を出っ張らせたあとガクガクうなづくと、勢いよく衣を脱ぎはじめた。
それを見て月は、やれやれと満足げに微笑んだ。
フワリと香る花のオイル。月のお気に入り。
あまくとろけるようなフワフワのシャボンは、甘味の好きな竜崎もきっと気に入るにちがいない。
「きもちいい竜崎?」
「はあ…」
覇気のない男の声にかまわずワシワシと両手で、ゴワついた黒髪を洗ってやる。まるで犬みたいだな。
月はやさしい気分で、肩甲骨の斜め上あたりにある傷口に直接ふれないよう注意しながら、どんどん石鹸を泡だて
湯のなかの動物をデコレートする。
浴室にこもる甘ったるい匂いと、熱。
「どうして月くんはドレスを脱がないのですか…」
「さっきからやけに静かだと思っていたらそんなことか。僕は風呂に入らないんだから、脱ぐ必要はないだろ」
「でもびしょぬれじゃないですか。脱いだほうが良いですよ」
「うるさい」
わざと濡らした人間の言うセリフじゃない。
バスタブは狭いのでふたり一緒に入ることは出来ない。さわぐ男をムリヤリ湯に浸からせたあと、外のタイルの
うえに裸足で立って、月は竜崎をペットよろしく洗っている。
「約束がちがいます」
「約束なんかしてない。洗うのを手伝うって言っただけだ」
そんなに僕の裸が見たいんだろうか。
不思議におもう。竜崎の前で、月はなんどか素肌を晒したことがある。全身を舐める男の視線はそのたびに
チリチリ肌を焼くようで、恐怖や不快を感じたのも事実だが、でも月はすぐに慣れてしまった。
羞恥心を知らないつもりはない。ただ単に、見られるのを恥ずかしがるほど貧相でもなければ、勿体つけるほど
素晴らしいモノでもない。そう思っているだけだ。
竜崎はちがうのだろうか。特に珍しくもないごく普通の月の肉体。それに、目利きの男はいかほどの価値を
見い出しているのだろうか。
「まあ…濡れて透けてみえるのも、またそそりますけど」
ボソッと呟かれたことばにハタと自分の格好を見下ろして、月は眉をよせた。
淡いブルーのドレス生地は水気を吸ってピタリと肢体に貼りつき、身体のラインどころか上気した肌色すら
浮かびあがらせている。
「変なこというな」
「色っぽいです」
「うっとうしいな…やっぱり脱ごうかな」
「是非」
竜崎はちょっとウンザリした月の顔を覗きこむと、
「月くんはどうですか?私の裸に感じませんか?」
「…は?」
突然おかしなことを言いだした男の真っ黒な目を、マジマジと見つめかえした。
「ぜんぜんなんともおもわない」
「…それは残念です」
幾分ガッカリした様子の、まるまった男の背中を海綿で擦りながら、そういえば。と月は考える。
竜崎の素肌をみるのは、はじめてかもしれない。
怪我の看病をしているあいだも、着替えや包帯をかえる際に目にしていたかもしれないけれど、正直それどころでは
なかった。
あの時は冷静に観察する余裕などまるで無かったから。
月はパチリパチリ瞬きしたあと。おもむろに後ろからじっと、男の裸体を凝視した。
やっぱり血色がよくない。それから痩せているとおもう。こんな痩身で、よくあれほどまでに力強く
剣を振るえるなと自分を棚にあげて感心する。
けれど貧弱ではけしてない。掌で触れてみれば、しなやかで強靭な筋肉が無駄のひとつもなく肉体を
覆っているのがよくわかる。
実戦で手に入れた身体だ。経験を重ねることで鍛錬され精練された鋼とおなじように。ながい月日をかけて。
月にはとても想像のつかない、竜崎の歩んできた道程。なんど修羅場をくぐりぬけ、なんど死線を
さまよったのだろう。月の知らないあいだに月の知らない場所で。
この肉体そのものが竜崎の歴史。
「月くん」
「ん?」
真面目な声で竜崎が言った。
「すみませんが興奮しますので、あまりさわらないでもらえますか」
「───ごめん!」
ついウッカリ、しみじみと撫でまわしていたらしい。
それこそ珍しい遺跡かなにかにふれる感覚でいた月は、あわてて掌を離した。
その手首を振りむきざま、男がつかむ。
「なに?」
「興奮しませんか」
「…しないよ」
微かに笑うと顔が近づいて、唇がかさなった。
前髪からたれた雫が月の頬をつたいふたりの口づけを濡らす。いつも以上にながく湿ったキスは、
唇だけじゃなく全身まで濡らすようだと感じた。
浴室に熱気がたまって、からだにも、こころにも。熱い。
頬が赤らんでいるのがわかる。速い鼓動。
きっとのぼせたんだ。睫をふるわせながら月はおもった。自分は湯に浸かっているわけでもないクセに。
スルリと。竜崎の指が繊細に月の背筋を撫でおろして、ピクリと肩が跳ねた。
「………っ」
キスを解き逃れようとするが男の腕は逆にきつく拘束する。睨みつけてくるヘイゼルの瞳はあまく潤み、
まるで蜜をこぼす花のように竜崎を誘う。
白いくびすじも上気している。引きよせ香りをかぐように顔をうずめると、こらえきれない吐息が耳もとに落ちた。
「竜崎…くるしい」
「熱いでしょう月くん。脱がせてあげます」
それから独特のつまみ方でドレスの紐をほどこうとするが、指も布もびしょぬれの為なかなか思うようにいかない。
竜崎が無表情に悪戦苦闘していると、腕のなかの月が抵抗するみたいに身を捻った。
抱き締めてささやく。
「嫌ですか?」
なにが?竜崎のまえで裸になることが?それ以上の行為を求められることが?
好きならいずれは相手が欲しくなるもの。
ほんとうに?
うすい布いちまい通して、竜崎の体温を直接かんじる。キスも抱擁も、竜崎とならきもちわるくない。きもちいい。
月のつまらない身体が竜崎は欲しいという。
竜崎のからだは竜崎そのもの。
「いやだ」
「月くん」
嘆息して、竜崎は月を解放しようとする。その固い二の腕に爪をたてると縋るように頬をよせた。
「月くん?」
「…ここじゃ…いやだ」
うごきが止まる。
まともに顔が見れないな…月は俯きながら思った。
心拍音が浴室にひびいて竜崎にも聞こえるんじゃないか?
「───部屋にもどります」
しばらく間をおいて、低い声と同時にザバッとバスタブから立ち上がった男にいきなり問答無用で引きずられ、
月はすこしだけあわてた。