『パリの高級娼婦ヴィオレッタは富豪の息子アルフレードの真摯な求愛にためらいながらも心をひらく。
ふたりは郊外で幸福な時を過ごすようになる。
しかしある日。アルフレードの留守に彼の父ジェルモンがヴィオレッタを訪れ、妹の縁談のためにアルフレードと
別れてほしいという。
ヴィオレッタはジェルモンの説得に身を引く決意をし、アルフレードのもとを去る。
そうしてパリに戻ったヴィオレッタの前に突然アルフレードが現れ、彼女の裏切りを人々の面前で罵る。
傷心のあまり泣き崩れるヴィオレッタ。
時が過ぎ。すべての誤解がとけたときはすでに遅く、
病床にあったヴィオレッタは、許しを請うアルフレードの愛に包まれながら命尽きるのだった』
(ヴェルディ作曲オペラ「椿姫」あらすじ)
燦々とライトアップされ煌く劇場前広場。華やかな夜の街。行き交う馬車の蹄の音。
雑踏のなか、けたたましくクラクションを鳴らしながらノロノロ走る四輪車と、ごったがえす人波。
そぞろに笑い囀りあう紳士淑女たち。
その夜のガラ・コンサートに集まっているのは、プラチナチケットをいとも簡単に入手することのできる社交界の
上流階級者たちだ。
みながせいぜいドレスアップして、笑顔の仮面をはりつけ、パートナーとすました仕草で腕を組み、
従者にうやうやしく案内されて館内へと消えていく。
さて。あのなかに音楽を本当に理解できる耳をもった人間が、果たして何人いるものか。
そんな皮肉気なセリフを声には出さず呟きながら、群れのなかにヒソリと紛れ込んで、竜崎は、いた。
コンサートチケットは外套の内ポケットにきちんとおさまっている。見目良いパートナーは居ないものの、ひとりでも
堂々と胸張って瀟洒なエントランスホールに乗りこむのに問題はなかったが、
彼が影のごとく気配を殺し人目を忍んでいるのは理由があった。
竜崎はけして芸術を楽しみにきたわけではないのだ。
ひときわ豪奢な四頭立て馬車が、人ごみを掻きわけるように劇場前にピタリと横づけされた。
公共の場では身分や格式によって降車場所があらかじめきまっている。建物の入口にもっとも近いところで停車した
それは、明らかに権力者のもので、
そっと、人影に隠れながら竜崎は嵩高帽をまぶかに被りなおし、近づいていった。
馬車の扉がひらき、白髪の老人が従者に支えられながらステップをおりる。十数メートル離れた場所から、その様子を
仔細に観察する。
齢をかさね弱った足腰は、ほんの僅かな距離を移動するだけでも杖の介助を必要とするようで、いっけん年老いた男は
余命みじかいただの裕福な老人に見えたが、
皺だらけの干からびた相貌のなかで炯々と鋭くひかる両眼が、それを見事に裏切っていた。
まちがいない、ヤツだ。
ソロリとさらに数歩近づいた竜崎の足が、止まった。
老人のあとにつづいて、黒いドレスを身にまとった人影が馬車からあらわれた。光沢をはなつ贅沢な生地でつくられた
ドレープをぞんざいに捲くりながら、地面に降り立った細い足首。
繊細なレースでふちどられた華奢な鎖骨。大胆に晒された背中のなまめかしさ。
───!
竜崎のでっぱり気味の双眸が見ひらかれる。
黒いドレスにより余計に際立つましろい肌。遠目からもわかる艶をふくんだ肢体。蜂蜜色の髪。
おなじ色のながい睫。おなじ色の憂いをおびた瞳。
あのときの彼だ。
息をのんだ。それからジッと見つめた。キラキラ眩い、おそらくは怖ろしく高価だろう耳飾りを鬱陶しそうに毟りとり、
馬車のなかに放り投げると、彼はフッと夜空を仰ぐように束の間目をとじた。
頬を撫でる自由な風をいとおしむかのごとく。
それから当たり前みたいに老人の傍らによりそった。たおやかな腕が曲がった背中に添えられる。
老人の腕も彼の細腰にまわり、我が物顔に抱き寄せるのがハッキリとみえた。
やわらかな絹糸の髪に顔をうずめ、老人がなにごとか囁いているのだろう。彼は唇だけでうすく笑いながら答えている。
そのまま突然に重なる、老人の醜悪なそれと、彼の薔薇色のそれ。
衆人環視のなか、彼はいっさいの抵抗を見せなかった。当たり前だ。抵抗できるはずもない。
老人は娼婦である彼のパトロンなのだ。
これは偶然なのか。
ピクリと彼が震えるのがわかった。痛々しいほど剥きだしにされた彼の背筋を、皺だらけの蜘蛛の足みたいな老人の指が
密やかに愛撫している。
首筋がのけぞり、
その時。
ながされた琥珀の視線がたしかに竜崎をとらえた。
瞬間。周囲の雑音が消えた。
目と目がピタリとあった。
みるみる白磁の相貌が強張っていく。彼の腕が、咄嗟に拒むように老人の胸を押し返していた。
───どうして。
しかし狼狽した眼差しは一瞬で無機質な琥珀にもどり。
いぶかしげな顔をした老人にふたたびトロリと蕩けた微笑をむけて、公衆の面前である羞恥は欠片も持ち合わせて
いないようにキスと愛撫を繰り返しながら、
彼と老人は劇場の奥に消えていった。
その後姿を、一部始終を、竜崎は執拗にとらえつづけていた。
虹彩のない眼球には昏い炎が揺れている。
これは偶然なのか。
こんな偶然が。
竜崎の追っている獲物。その愛人が、彼。
偶然ではなくまるで運命のような。なんてすばらしく、皮肉な運命。
そう独りごちて今はそれよりも仕事だと気を取りなおし、竜崎は彼らのあとを追うために劇場内に足を踏みいれる。
虚栄と欲望とで彩られた舞台で今夜おこなわれる演目が、
まるでふたりを運命を暗示するかのように。