1月28日。晴天。吸い込まれるような青空と、降り注ぐ柔らかい太陽の光。
今年は例年にない暖冬だそうだ。東京ではいまだ積雪を記録していない。
それでも、年明けからはようやく街の空気も、真冬の気配を纏ってきていて、地面から巻きあがった
痺れるほど冷たいビル風に、松田は首をすくめコートの袷を掻き寄せると
足早に本庁のエントランスに駆けこんだ。
緊急招集が掛かったのは今朝のことだった。また「L」から極秘に日本警察への捜査協力要請があったらしい。
いつもの部屋に向かえば、いつもの面子、相沢や伊出や模木たちが、一足遅れでやって来る松田を
今かいまかと待ち構えているだろう。
人影の少ない庁内の、ガランとした廊下を進む足取りは重く、すこしだけ憂鬱だった。
「L」こと二アから接触があるたび。
あの過去を。あの事件を。あの瞬間を。否が応なく思い出さざるを得ないから。
たぶん松田 桃太というちっぽけな人間のちっぽけな人生の中で、もっともドラマチックかつ、哀しい記憶を。
ちょうど一年前の今日、数年間にわたる紆余曲折を経て無事解決に至った、凶悪連続殺人事件。
通称キラ事件。
松田自身も捜査に加わり、まさに捜査員全員が命がけで、張り詰めた緊張感の続く日々のなか
短くはない時間を共に過ごした仲間のうちに、彼らはいた。
世界的謎の名探偵、Lと呼ばれる男。竜崎と呼んでください、と飄々と名乗った男。
ひどい猫背で、ボサボサの黒髪とおなじ色の黒い瞳。虹彩がなくのっぺりした鏡みたいな眼球が、いつでも映し出していたのは、
いつでもその傍らに鎖で繋がれていた、たったひとりの青年。
竜崎とは対象的にスッキリ背筋を伸ばし、薄茶の柔らかそうな髪とおなじ色の明るい瞳で
松田に綺麗な笑顔を向けていた。
夜神 月。
おまえ、月くんが好きだったんだろう?
「すんません遅くなりましたー」
悪びれず気の抜けた挨拶と同時にドアを開ける。すでに集まっていた面々がいっせいに振りかえる。
資料とおぼしき紙束を手にし、さっさと極秘会議は始められていたらしい。
上席にあたる相沢の髭面が、いかめしく顰められるのを横目にして、松田はうへえと両眼を泳がせた。
「遅いぞ。もうすぐLから直接、連絡が入る。早く準備しろ」
「うぃーす」
どうにもヤる気が出ない。松田の態度に、相沢はますます渋面になる。
その横から微かに労わりの苦笑を見せて資料を差し出してきたのは、伊出だ。伊出は、松田が心底ニアを嫌っているのを
知っていた。ニアという人物が想起させる複雑な感情を。
夜神 月の父親である夜神 総一郎は、当時、キラ事件担当の長をつとめ彼らの上席でもあったが、
総一郎に対しても息子である月に対しても、松田が尊敬と思慕の念を抱いている事も知っていた。
夜神 月という名の他にもうひとつ。「キラ」という名を隠し持っていた、かつての青年に対して
松田が心から純粋な好意を抱いていた事をも。井出は知っているのだ。
松田は月か好きだった。
そばに居て綺麗な彼を見ているだけで、淡くときめく仄かなソレは恋心のようでもあったし
むしろ憧れのようでもあったし、あるいは兄弟や肉親への温かな情のようでもあったし。
総一郎は、松田にとって血の繋がりこそないものの、実の父親以上の存在と感じていて、月の、総一郎譲りの正義感と
強くまっすぐな内面に、キラ捜査を通じてますます惹かれていた。
月がキラだ。という絶望の真実を目の前に突きつけられても
松田は最後の最期まで信じられなかった。
そんな筈はない。月がキラである訳がない。
その思いは、彼の父である総一郎より、松田の方が強かったのかもしれない。
月の。家族も人生も命も、大切なものすべてと引き換えにしてでも守ろうとした、正義。信念。
それがキラ。
正義とはいったい何なのだろう。松田はいまにして思う。
松田は、本心からキラが悪だと認めたことは、実は一度もない。
自分が刑事という立場に身を置き、世の中のルールを率先して遵守しなければならない立場にあり、
仲間がいて、尊敬する先輩に総一郎がいて、
人間である以上「守らねばならぬ法律」にのっとって、罰すべき犯罪者としてキラを追った。
しかし現在。
キラがいた一年前に比べて、世間は確実に澱んでいる。腐っている。劣化している。
悪人がのさばり善人が苦しみ、厳しくも凛と美しく公平だったキラの時代から時を戻し、ヒトは退化した。
「本当にコレで正しかったのか」
「自分たちは正義を行ったのか」
疑問は未だに残っているしこれからもずっと残り続けるのだろう。松田が生きる限り永遠に。
後悔も、口惜しさも憤りも哀しみも、
松田があの時、あの瞬間、激情にかられ月を銃で撃ってしまったという恐ろしい事実も。
生きていく限り消えはしない。松田だけでなく、相沢や伊出や模木や、
月に竜崎にあの事件に係わったすべての人間たちの心に、傷は残り記憶も想いも残されるのだ。永遠に。
やるせないこの重たいモノを抱えて、この汚い世界のなかで生きていく。
それが遺された者たちの責任なのだから。
時計の長針が12の数字を指し示し、予定どおりPC越しにニアとの捜査打ち合わせが始まった。
送られてきた事件に掛かる大量の映像と音声。キラという神を喪ったこの世で、リアルに行われている犯罪の数々。
データ等からボンヤリ視線を逸らし、松田はブラインドの隙間からソッと、外の景色を眺めた。
注意しようとした相沢を、伊出が諌める。何事か囁いて、仕方ないという風に二人はちいさく肩を竦める。
感慨に耽るのはニアのせいばかりではない。
今日だけだ。
たとえ。キラ事件そのものは時が過ぎ、風化して、星は何事も無かったかの如くに回るのだとしても。
今日だけは。
ヒッソリと。そこに善悪の是非など介在させず、ただ一人の人間として感傷に浸りたい。
彼の笑顔に、言葉に、生涯に、
夜神 月という人間が間違いなく生きて、ほんの一瞬、共に在れたのだという彼との記憶と思い出に。
松田はそれほど強い人間でない。むしろ弱くズルく情けなくみっともない人間だ。
重たいモノを背負って生きていくなら、やがて自分を正当化し、いま生きる汚れた世界にあわせ、自らも変化していくだろう。
必然的に。
そうして後悔も口惜しさも憤りも哀しみも、傷跡は残るが、やがて時間が癒してくれる。
松田は弱い人間だから、その事をよく知っている。
最期に遺されるのはきっと懐かしさと愛しさ。
ありがとう。と。
四角く切り取られた窓から臨む、雑然とした街並みを照らす太陽の光。ビルの合間から見える空は、どこまでも青かった。
綺麗で、眩しくて、あの日も今日も、青かった。
ガラス越しにきらめく光に目を閉じて
松田は黙祷を捧げた。
「はいカットー!」
青空に響く掛け声にあわせ、現場の張りつめた空気が一気に緩んだ。
ザワザワ大勢のスタッフたちが行き交うなか、スルリと人混みを抜け出した小柄な女性。
つい先刻まで沢山の人間とカメラに囲まれ、その中心で熱い視線を浴びていた人物。
華奢で、スタイル良く、色白の華やかな美貌が人目を惹く。いっときの金髪から地毛色に戻したものの、
やはり色素の薄い長い髪がフワリと風に揺れた。
「ミサミサお疲れー」
「お疲れ様でーす」
「ありがとうございましたー!」
弥 海砂は現在、アイドルタレントとしてテレビや雑誌等で活躍するかたわら、演技派女優としても本格的な活動を始めている。
数年前の、明るく奔放で突き抜けた感のあった彼女のキャラクターは鳴りを潜め、いまでは落ち着いた雰囲気と、
フとした横顔にさす物憂げな影に、ミサの内面に起こった大きな変化が表れていた。
「ねえ。今日は仕事、これで終わりだよね?」
ロケ現場から帰る車中、運転席にいるマネージャーに何気なく問いかける。
「あーご要望どおりこのあとは久々のオフだけど?何か予定が入ってるの?」
逆に問い返されて、ミサのマスカラで飾られた長い睫が、微かに伏せられた。
「うん。今日はね、ミサの大切なひとと二人っきりで過ごす日なんですー」
「………ま、くれぐれもマスコミにバレないようにね」
彼女にそんな相手が居ない事を充分承知で、内心、首を傾げつつ、マネージャーはミサを自宅マンションまで送り届ける。
玄関のドアを閉め、鍵をかけるや否や、
やたらガランとした空間の多い、一人きりの住まいには広すぎる部屋を横切り、ミサは窓に掛けていたカーテンをサッとひいた。
明るい陽光が差し込む。
今日も良い天気。
ねえライト。一年前とおんなじだね。何も変わらないね。
以前は二人一緒に暮らしていた部屋。今もここにライトさえ居てくれれば。なんにも変わらないよ。
今日はミサの大切なひとと過ごす一日。
そう。
今日は、ライトがミサの前から消えてしまった日。ミサの知らない間に、ミサがライトを喪ってしまった日。
だから今日は一日ライトを想う。ライトでミサのなかを一杯にする。もう二度とライトをなくさないよう。
昨年の今日。ライトは正義を、世界を、ミサを守るためにキラと戦い、犠牲になった。
死んだなんて言いたくない。だってそんなの認められないよ。ミサはライトの眠る顔も見てないし、さよならすら言えていない。
ある日何気なく別れたら、そのあと永遠に会えなくなるなんて。
そんなの酷い。ひどい。ひどい。あんまりだと、号泣した。あのとき。
ライトの死も、キラ事件が終わったことも、キラ捜査本部の人たちが教えてくれた。
けれどミサにはよく分からなかった。暗い表情をしたマッツーやモッチーやモンチッチーは曖昧に言葉を濁すばかりで、
どうしてライトが死ななきゃならなかったのか。キラの正体は誰だったのか。キラはどうなったのか。
結局、ミサは何も知らない。
だけどそんなのどうでもいい。キラなんてどうでもいい。ミサはライトが。ライトだけが。
死のう。と思った。
ミサはライトの居ない世界には居られない。ミサはライトなしでは生きていけない。ミサもライトの後を追うよ。
そう決めて包丁を握ったミサの腕を、掴み、邪魔をしたのはマッツーだった。
ミサをこの世界に引き留めたのは、松田の一言。
「月くんは自分の信じる正義のために死んだんだ!」
───どうしてマッツーがそんな事を言ったのか。松田の本心がどこにあったのか。
誰にも分からないけれど。
生きよう、と思い直した。
そうだ。ライトはこの世の中とミサを守るために犠牲になった。だったら死んではいけない。のかもしれない。
ミサの何より誰より大切なライトの命を懸けて、ライトが守ろうとしたのなら。
死んではいけない。生きよう。生かされているんだ。ライトに。
ミサの命はライトのモノ。いまは別々に離れても、いつかミサの魂はライトのところに逝けるよ。何故だか知らないけれど
そう確信があるよ。
ミサの心はずっとずっとずっとライトに寄り添っている。永遠に。
キラ捜査の関係で、ライトは写真を撮られるのを嫌がった。同棲していた際の、部屋に置かれていたライトの私物は、
捜査本部の人たちが根こそぎ持っていってしまった。
ミサはライトのお葬式にも行けなかったから、形見分けの品もない。
でも思い出と、想いがあれば、それで充分。
目を閉じればいつだって鮮やかに、ライトの顔が浮かんでくる。綺麗で、優しくミサに微笑んでいる。
ミサも窓のガラスに額をくっつけ、ライトに向かって微笑む。
ねえライト。今日はミサ、公園でロケだったんだ。
晴れて、青空で、風は冷たかったけど空気が澄んでて、気持ちよくて、太陽の光が眩しくて、とってもキレイだった。
これがライトが守ろうとした世界なんだね。
これがライトの愛した世界なんだね。
空を仰いでミサは瞳を閉じる。涙が溢れるのを感じた。
熱い雫に、自分が生きていると感じた。
今日はミサの大切なひとと過ごす一日。
思い出と、想いと語らいあい、
こうやって生きる意味を確かめている。
都心から車で数十分。
郊外近くにあるその墓地に向かって、ゆるい上り坂をユックリのぼってくる影がある。
父親と、母親と、娘の三人連れ。
よく晴れた青空のもと、彼らは静かな表情に穏やかな足取りで、交わす言葉もなく無言のまま、肩を寄せあい
支えあうようにして歩いてくる。
手に提げた白い花束が、冷たい風にふうわりと甘い香りを漂わせる。父親が持っている水の張られた手桶が、
ピチャピチャちいさな音を立てる。
やっと。やっと、そんな淡々と流れる時間を、取り戻すことが出来た家族だった。
一年の月日をかけて。
上り坂から続く急な階段をあがり、見晴らしの良い高台の一角に立つ墓石の前に、そろって辿りついた。
「お兄ちゃん。来たよ」
粧祐の小さな呟き。幸子がソッと堪えるみたいに目頭を押さえた。
一年の月日をかけて。しかしたった一年程度では、こぼれる涙が枯れる事はないのだと。
亡くなったのは彼らの家族だった。
かけがえのない、大切な、愛すべき一人息子。
幼いときから賢く、素直で、優しくて、誰からも慕われる自慢の息子であり、兄だった。
突然、その存在を奪われ、あまりの衝撃と憤りと哀しみとに混乱し、いっとき家族はバラバラになりかけたが、
何より亡くなった月が愛し、月を愛していた夜神家の固い絆は、怒涛の悲劇を耐えぬいて、
ふたたび温かなぬくもりを取り戻している。
三人で手分けして墓石の周りを綺麗に掃除し、水を流し、線香をあげる。
このヒンヤリした石の下に、月はいない。夜神家で葬式はあげたが、棺の中身はカラだった。
月の遺体は、検分を理由に最後まで警察から引き渡されなかったのだ。
刑事として連続殺人鬼キラを追う特殊捜査のなかで、犠牲になり、殉職したと報せが届いた月の死の詳細は、
いまだ家族に告げられていない。
腰を下ろした粧祐と幸子が、深く手をあわせ瞼を閉じる。
隣にひとり立つ総一郎の髪は、まっしろに染まっている。
もともと上背がありガッチリしていた体格も、ひとまわり縮んで、酷く老け込んだ様子に見えた。
総一郎は一年前、キラ捜査が終了すると、警察の立場から身を退き
以後、ヒッソリ世を忍ぶ隠居生活を送っている。
そんな彼を知る者たちは、キラ事件で大事な一人息子を喪い、失意のあまりなのだろうと、憶測から同情と理解を示す。
事件の真相を知る、ごく一部の人間を除いて。
視線を向けると、妻と娘は頬に涙を流していた。
嘆き叫ぶのでなく、故人を悼み偲ぶための透明な雫。
総一郎は一度も泣けなかった。月がキラである事実を知ったときも。月が死んだときも。かりそめの葬式でも、眠れない夜も、
こうして墓前で思い出を振りかえる時ですら。
辛い。哀しくない筈がない。ショックでない訳がない。
だが、心が壊れてしまったのでも、ない。
けして泣いてはならないのだ、と。
粧祐や幸子は、キラ事件の真実を伝えられていない。総一郎たち捜査員から事後報告を受けた各国警察上層部は、
事件真相の特殊性と、公表した場合、世界中に与えるだろう動揺に配慮して、
キラ関連の情報をトップシークレット扱いとする結論を出していた。
キラの正体と秘密が明るみに出ることは、今後まず、あり得ない。
よって、彼女たちにとっての月は、今でも優しく出来た息子であり兄であり、
正義感に溢れた、いつでも一番優秀で、まっすぐな瞳で微笑む綺麗な夜神 月のまま。
「お兄ちゃん…」
穢されず傷つけられず、美しい記憶のまま。
それでいい。総一郎は思う。
真実は自分だけが知り、自分の胸のなかに隠される。死んでも隠し続ける。永遠に。
それが夜神家の父であり、月の父親であった総一郎の、責任。
月の、キラとしての思想と理想は、総一郎から強く影響を受けたものだった。総一郎にはよく分かっていた。
───僕、大人になったらお父さんみたいな立派な警察官になる!
───ライトは弱い人たちを助け、正義を行える人間になるんだぞ。
父親を誇りとし、目標とし、いつかその大きな背に並び越したいと願った息子の、純粋な想い。
どう受け止めたら良かったのだろう。
一年前の今日。あの日、あの時、あの倉庫で、血に塗れ倒れる月の姿に愕然と喘ぎながら
総一郎にはどうしようも無かったのだ。なにひとつ出来なかったのだ。
キラ事件で犠牲になった人びとに対しても、世間に対しても、月に対しても。
「逝きたくない」と絶叫する子供を、罵倒することも、抱き締めることすら。
そんな自分がただひとつ為せる、責任と贖罪。
どれほど辛くても苦しくても後ろめたくても。後悔しても。己を責めても。責められても。真実と想いを両腕に抱えて
総一郎は生きる。死ぬまで、生きる。
そしてこの重たいモノを抱えたまま、いつか死ぬ。
それまでは。事件に掛かるすべての事柄から、側に居てくれる優しい人たち、粧祐や幸子を守り、幸せにする事こそが、
いまの総一郎に与えられた存在意義。
しばらくすると、場所を譲った幸子と入れ代わりで墓の前に腰をおろし、総一郎は合掌しつつ、フと、空を仰いだ。
枯れ木の合間を風が渡っていく。線香の煙が細く白くたなびく。どこまでも青い天にのぼる。
ライト。
お前が正しく変えようとした世界は、今だって本当はこんなにも美しいぞ。
お前が目指した新しい世界は、きっとこんな綺麗な場所だったんじゃないか。
なあライト。なのに何故、お前が居ない。
私は、お前に今日という日を見せたかった。
この青い空を。どこまでも続く未来を。澱んで汚れたこの世にも、ちゃんと在るべき希望を。
無理に手を伸ばし求めなくても目の前にあった、ひとかけらの幸福を。
誰より賢く強く優しく純粋であまりに愚かだった、お前に。
目を閉じて、面影を思い浮かべる。やはり涙は流れなかった。
でも。
ライト。それでもお前は、私のたった一人の息子。
大切なたいせつな家族である事に今でも変わりない。
お前は私の誇りだった。その想いに今でも後悔はない。いまでも愛している。ライト。
(信仰に似た恋と)(恋に限りなく近い信仰と)
テレビのブラウン管の中で、女性キャスターがニュースを伝えている。
放火、強盗、殺人事件。続々と切れ目なく起こる凶悪犯罪の数々。
あまりに日常的すぎて、次第に感覚は麻痺していく。事態の重み、被害者の哀しみや痛みを思いやる心すら。
スタジオの、汗が滲むくらい暑く明るい照明をあびて、冷静に原稿を読みあげながら
人気アナウンサーである高田 清美は、やるせない想いを募らせていた。
こうして事件を報道すればするほど、ひとは皆、優しさを失い心を失っていく気がする。
そう感じるたびに虚しくなる。自分はいま一体何をしているのだろうか、と。
毎日まいにち加速度を増して膨れあがる悪意と、押し潰される善意。犠牲になるのはいつだって弱い人間だ。
心優しい人たちだけが暮らす理想の社会が、喪われてしまったから。
ちょうど一年前の今日。
幻のごとくキラが消えてしまってから、世界は再び悪がのさばる世の中に戻ってしまった。
せっかくあれほど美しく、正しく、清らかに生まれ変わったかに見えた人びとは、神の存在を喪って、もとの悪人へと
逆戻りしてしまった。
みるみる荒れ果てていく街の景色。崩壊するモラル。高田には分かっていても何も出来なかった。
自分は何なのだろう。
高田 清美は、当時、キラ支持派の先導者として世間から絶大な支持を得て、広告塔の役割も担っていた人物だ。
そのせいで警察のキラ捜査本部に目をつけられ、一時は身柄を拘束され、取り調べまがいのマネまで受けたが、
結局、キラ自身が消えてしまった為に高田も解放されて、現在では以前どおりの生活と仕事に復帰している。
それから毎日。高田は考えている。優秀な彼女は考え続けている。
自分の過去に、行動に、思想に、矛盾はない。
間違っていたところなど何ひとつ無い。
キラは高田にとって正義だった。理想の新世界を創造する神だった。
だからこそ高田は、たとえ反キラ派に狙われる危険を冒してでも、キラのせいで殺されるかもしれなくても、命を懸けてでも、
堂々とキラを支持し、擁護し、自分の意見をマスコミで発言し、世論に訴えたのだ。
熱病のように熱狂的に。彼女はキラを慕った。
いま。
この報われない虚しさに溺れているのは、高田にとって唯一だった神を喪ったからだ。
自分の存在は何なのだろうと感じるのは、自分を肯定し支えとなってくれていた「神」という「誰か」を喪ったからだ。
毎晩、真夜中に涙を流して、目を醒ます。目覚めたとき、高田はいつも誰かの名前を呼んでいる。
逝かないでくれ、と振り絞るみたいに叫んでいる。
なのにそれが誰だったのか、どうしても思い出せない。ただ辛く、胸が切り裂かれるほど、くるしい。
つらい。かなしい。さみしい。
きっとキラだわ。
彼女が失くしてしまった大切なたいせつな誰か。
半身を、あるいは心を全部ゴッソリもぎ取られたみたいな喪失感が、高田を覆い包んでいて、
たとえスタジオでスポットライトを浴びていても、条件反射でカメラに向かい微笑んでいても、
身体は冷えきり、痺れ、薄皮いちまい隔てたかのごとく全ての感覚が、遠い。
この苦痛からどうやって逃れれば良いのか。
高田は考えている。優秀な彼女はずっと、考え続けている。
まるで人生でたった一つきりの恋を喪ったときのような。
出口の見えないトンネル。光をなくした暗闇に
目の前に横たわる現実世界の何もかもが、うまく認められないでいる。ずっと、ずっとずっとずっと。
テレビのブラウン管の中で、女性キャスターがニュースを伝えている。冷静に原稿を読みあげる淡々とした声音の、
無機質な冷たさ。
そんなアナウンサー高田 清美が映る画面を、ジッと見つめている男がいる。
魅上 照。
魅上の望む、神復活の報せはいまだ、ない。
一度はこの汚濁の世界に光臨し、魅上の信じる正義を肯定し、腐りきった世の中を正そうとしてくれた神。
キラ。
キラは消えてしまった。日々のニュースが伝える情報にも、人びとの間にも、言葉にも、記憶にも。
キラの存在もキラの理想も、もう影も形も見あたらず、見つけられない。見つける術も無い。
どこにお隠れになられたのか。私の神よ。
魅上は熱烈なキラ信者だった。キラのためならどんなに馬鹿バカしい番組内容でも、信者たちを代表してテレビ出演したり、
擁護運動をしたり、検事という社会的地位すら利用してキラを支持し、
そうこうしている内に日本のキラ捜査本部、またアメリカのSPKなるキラを追う組織に目をつけられ
尾行監視のうえ監禁されるに至ったのだ。尋問も受けた。
彼ら捜査員たちは、魅上に対して一様に
「キラは悪だ」
と言い放った。そしてキラを追う自分たちを「正義」だと頑なに信じ込んでいる様子だった。
犯罪者といえど人の命を奪うキラは悪。
警察、FBTに所属し、法を守る彼らは正義。自分たちの行っている事は正しいのだと。
それが何だと魅上は思う。
時代はあの時、たしかに間違いなくキラを正義と認めていたではないか。
法を生業としてきた魅上が断言する。キラは、血の通わない欠陥だらけの法律書よりも人の情を知り、矛盾を知り、
そのうえでより公平に完璧であろうとする、生きた正義だったのだ。
魅上は捜査員たちに、キラの仲間、あるいはキラの一員として疑われた訳だが、
もし。もし本当にそうだったとしたら。
自分はどれほど幸せだっただろうか。心から思う。
自分がキラの力になれる。キラが求める新世界を実現すべく、キラと手を携えともに悪と戦う。
なんて素晴らしい。夢だった。願いだった。しかしその願いは果たされず、キラは消え、
魅上は一人この薄汚れた場所に取り残された。
もし自分が。もしキラと共に在れる者だったならば。消えてしまった神に、自分も連れていって欲しかった。
どこまでも神と共に在りたかった。叶わぬ夢なのだとしても。
ニュースの時間が終わり、テレビを消す。
淡々と粛々と世の絶望を伝えていたアナウンサーの姿もプツリと消える。
あの女性キャスターに、魅上はなぜか以前から不思議な親しみと懐かしみを覚えていた。
実際に会って直接、言葉を交わした事もある。キラに関係するテレビの討論番組で、ほんの一、二度のことだが。
もう二度と会う機会もないだろう。
なのに彼女の口から、もしかしたらキラ復活の報せが聞けるのではないか、と。
ニュースキャスター高田 清美もまた、魅上と同じくらいキラを崇拝していた同士であったので。
おなじ神を喪った憐れな仲間として、彼女の毎日の言葉に微かな期待を寄せている。それが報われることも、ない。
しかし魅上は諦めていなかった。
まだ。まだだ。まだたった一年。完全に神が喪われたのだと、決まってはいない。
魅上は待ち続けるだろう。探し続けるだろう。
キラを真実喪ったのだと、死ぬまで、死んでも、認めないだろう。永遠に。
何故なら、キラがこの世界から失せた理由は、キラがこの世を見捨てたか、
あるいはキラがこの世の悪に負けたということ。
認められない。それだけは絶対に。
キラの悪への敗北は、魅上の悪への敗北。魅上の正義が否定される。思想が否定される。人生を、命を、
魅上 照の存在そのものを否定される。壊される。狂ってしまう。
だから。
彼はこれからも神を探し続ける。求め続ける。
目の前に横たわる現実世界の何もかもを認めはしない。けして。絶対に。永遠に。
淡光をはなつ無数のPC画面と、フローリングの床にズラリと陳列したオモチャに囲まれた、狭く閉じこもった空間。
厳重に密閉された部屋は24時間快適に空調が効いていて、窓はなく、空は見えない。今日が晴れでも雨でも曇りでも、
彼には天候などまったく関係ない。
玩具のなかで特にお気に入りのロボットを弄くり、自分の髪をいじくりつつ
現在「L」を務める男、ニアは、パチリと指先で面倒臭そうにスイッチを切った。
ちょうど。いま手がけている裏シンジケート摘発の件で、かつてキラ捜査により協力関係を築き、
面識をもった日本警察内の一部の者たちに、協力を要請し
その打ち合わせが済んだところだった。
ニアは利用出来るものは何でも利用するタチである。謎の名探偵「L」の正体を知ってしまった捜査員たちを
放置しているのも、彼らを信用しているからではなく、利用価値があるからだった。
今回も大いに役立ってもらおう。
「L」
ピッと軽い電子音と共に、今度は別案件の連絡が「ワタリ」ことロジャーから入る。
まったく、目まぐるしい事この上ない。忙しない。休むヒマもない。
キラが消えて一年。
世界情勢は確実に悪化した。キラによって封じ込められていた人間の悪意は、急激なリバウンドを起こした。
一度は瓦解した筈だったマフィアや裏シンジケートの再構築、テロリズムの復活、各国で内紛や戦争が始まりかけている。
犯罪率は70%以上も増加し、治安当局が悲鳴をあげている。
結果、Lのもとに連日舞いこむ捜査依頼の数々。
ニアがいくら日本警察の元キラ捜査本部や、かつてのSPK、いまではFBTに復職した彼らを手駒に使っていたとしても、
とても手が回りきらないほどに。
そのくらい、今の世界は「L」を必要とするくらい、悪が蔓延しているという事だ。
「まったくこんな時に…メロは何をしているんでしょうか…」
猫の手すら借りたいですのに。ニアは独りブツクサ呟いた。
かつて別々に路が分かれ、それぞれの立場から個々にキラを追い、最後は共に追い詰めた旧友。
ニアが唯一、友として、仲間として、認めている希少な存在。
友人でも仲間でも利用する駒であることに変わりなかったけれど、
それでもメロとなら何でも出来る、と、ニアは確信している。
「二人でなら『L』を越えられる」とまで。
そのメロは現在、行方不明中だ。ワイミーズを飛び出してから独立独歩を主義としていたメロが、キラ事件をきっかけに
ニアの側に留まる、とは、さすがにニアも考えていなかったが、
やはり事件終了後、ものの見事に消息不明の音信不通になってしまった。
行方知れずだけなら、まだ良い。
この、キラが消えてからの雪ダルマ式犯罪増加に、万一メロが係わっていたらと思うと
そういう風にしか友人を捉えられない自分の歪んだ思考を差し置いて、ニアは非常に憂鬱になる。
もともとメロは目的のために手段を選ばない人間だ。
今でもマフィア連中とつるんで、好き勝手しているのではないかと想像するだけで
私は毎日まいにちこんなに大変ですのに………と勝手にムカついているニアであった。
しかしニアもメロも。自己中心的な自分勝手という面では、お互いソックリなのもよく、知っていた。
自分たちは、万人の正義の味方では決してない。
二人とも、協力しあい、世の中を良くしようなどという酔狂な考えは、微塵も持っていない。
ニアは、面白いゲームが好きなだけだ。ゲームは、ルールに則って行われるべきと思うだけだ。
目の前にある世の中の決まりがなければ、ゲームは面白くない。ルールがなければ、勝敗の決着だって付かないではないか。
そして一方的なルールを押し付けられる事が、ニアは大嫌いだった。
だからキラも大嫌いだった。
自分勝手な人間は自分勝手な人間を嫌う。キラの正義が正しくても正しくなくても「キラの正義」である時点で、
ニアには「正義」ではなかったから。
そんなものを強要されて生きるのは、真っ平ご免こうむる。だからニアはキラを赦さなかった。
対するメロは、ニアとすこし違う。メロはルールそのものを嫌がるタイプだが、彼には彼独自の価値観と判断基準がある。
メロは世の中の決まりを無視する困り者の代わりに、自分ルールを他人に押し付けることはしない。
そこがキラと完全に異なる点で、ニアがメロを認めている部分でもある。
正反対の様子でいて良く似たふたり。ニアはゲームでキラを追い、メロはプライドを賭けてキラを追い詰めた。
ニアとメロは協力はせずに協調して、ついにキラを捕らえた。
───二人でなら「L」を越えられる。
この考えは正しかった。自分たちの相性は最悪なのかもしれないが、また最良なのかもしれない、とニアは思う。
どちらにしろメロは、自分の人生の対として生まれてきた相方だ。きっとメロもそう思っている。
けれどメロは、ニアと二人で「L」をやる、とは絶対に言わなかった。
だから自分たちはこのままで良い。
距離は離れていても、いつも同じ目標を追い求めている自分たち。共通の指針。それはL。
二人でなら「L」を越えられるのだから。
「───L」
その名を呟く。幼い頃からのニアとメロの憧れ。慕い続けてきた偉大なる人物。
Lがキラに殺されたと聞いたニアは、愕然として、失望した。
やがてLの名を継ぎ、キラ事件捜査を行うなかで、次第に、Lと肩を並べた気になっていた。いやその時点で
Lを越えた気でいた。
一年前の今日。キラ事件の終幕。
それすらも自分の功績だと。ゲームの勝者は己だと。
Lが負けたという勝負の結末は、こんなにも呆気なくつまらないモノだと。本気で信じていた。
最後の最期に。
彼のひとの本当の恐ろしさを知った瞬間。
勝てない、と痛感した。
自分はああはなれない。ニアは心底思う。だから自分に出来ることは、「L」の名を継いだ責任を果たすために精一杯、
自分なりの努力をこれからもしていくだけ。
自分はああはなれない。なりたくもない。キラを捕らえるため、命を懸けるのは分かる。そこまでは。
その先は。
命などカケラも惜しまず、ひたすらにキラに迫り、キラのために、キラだけのために、
キラであった夜神 月だけのために。この世の中のただひとりの為に。
ありとあらゆる手段を駆使し、利用出来るものすべて、金も時間も人も感情も世界をも利用した。
なにひとつ厭わず良心やモラルなどある訳もなく。騙すだけ騙して、欺けるだけ欺き、
虎視眈々と最期には狙いどおり全身全霊をかけて、狙った獲物を、存在を、もぎ取った。掌に収めた。
狂気とすら言える執着。執念。妄執。
あそこまで人が人に惹かれる姿を、ニアが目の当たりにしたのは生まれて初めてだった。
自分には持つべきも、理解すべきでもない感情だった。言葉もなかった。メロもそうだったろう。
咎める気も、問い質す気も、なにも言うべきセリフすらなかった。
黙って、無言で、去っていく彼らを見送った。
事件の真の結末を知っているのはニアと、メロだけだ。
「L」の名を継ぐ資格を持ったふたりだけだ。他の捜査員たちは誰も知らない。
彼がLの名を持ち、彼がキラの名を持つ人間だったからこそ、そうなり得た両者だったからこそ、
彼らの運命はあそこまで絡み合ったのだろうか。
分からない。ニアにだって分からない事はある。もうその件に関してだけは、正直分かりたいとも思わない。
彼らには永遠に勝てない。たとえメロと一緒でも。二人でなら「L」を越えられても、
Lとキラ。
彼ら二人には永遠に勝てない。彼らふたりのような存在には………
いま貴方たちは何処でどうしているのですか?
窓のない閉じこもった部屋から、遠くとおく隔たった届かない場所へ、らしくもなく問いかけて。
こうして仕事の合間にたまに思い出しては、ニアは小さく溜息をついて、すぐに忘れるのだった。
またLとして、現実世界に広がる悪と対峙するために。
べつの街で、彼の相方も、おなじ日おなじ時おなじ事を考えていると、知らずに。
日本では青く、澄みわたっていた空も場所を変えると彩りを変える。
群青に、漆黒に、あるいは真紅に、黄金に。
それでも天空はひとつに繋がっている。
世界中に繋がっている。空を振り仰いだ人びとの想いは、時間も距離も国境も関係なく駆け巡り、伝わる。届く。どこまでも。
その場所ではその日、ドンヨリした曇天で、灰色に重たく立ちこめた雲の隙間から
白いカケラがヒラヒラ次々と地上に舞い降りていた。
雪が降っていた。
まるで城壁のごとく高くそびえる塀に囲まれた敷地内は、だだっ広く、荒廃している。そこに棲む住人たちにとって、
美しい庭園などあっても無くてもどうでも良いという事だ。
ツタの這う堅牢な石造りの建物も、ひどく古めかしい。寂れた様子は傍から眺めると、ヒッソリ景色の奥に隠れたたずむ
古城遺跡を思わせたが、それも人目を避けるため、住人自らの意図によるモノだった。
誰にも気づかれてはならない。世の中から忘れ去られた、秘密の場所。
外見に反して、屋内は丁寧に手が加えられている。アンティークな調度品と近代的設備。豪奢なホテルみたいに
快適な住空間が広がっていた。
窓には鉄格子が嵌められ、扉には重々しい錠前が掛かっているのを、敢えて目にしなければ。
「今日も雪だな」
音もなく降り積もるソレらと同様、シンと静かな声が、部屋のなかにボンヤリ響きフワリと落ちた。
若い男の、優しいテノール。
「外の世界が気になりますか?」
応じた男の声もそれなりに若い。しかし飄々と感情を表にあらわさない声音は、むしろ年齢不詳だ。
皮肉とも取れる竜崎のセリフに、窓辺で、嵌め殺しの冷えた強化ガラスに額を当て、屋外を眺めていた月は
ちいさく笑った。
竜崎が近寄ってきて背後から両腕でキツく抱きすくめる。出会った頃はまだ高校生だった、今では立派に成人している肢体。
それでも以前に比べてずいぶん、痩せた。
「逃がしませんよ」
「逃げやしないよ。僕は。オマエだって分かってるだろう竜崎」
微笑したまま穏やかに月は答える。その笑みには悔しさも、憤りも、哀しみも、諦めも屈辱すらなにも無い。
純粋で透きとおった瞳はまっすぐな光を湛えていて、
「大体どこに逃げるって言うんだ。僕にはここ以外、行ける場所なんて他に無いじゃないか。
オマエの側以外には」
「はい」
腕の中の滑らかで気持ちいい首筋にキスしながら男は頷いた。
それでも足りなくて、赤い痕が散らばる素肌に掌を這わすと、燻っていた情欲の名残に、簡単に火がともる。
片腕で拘束したまま片手で月の顎を掬う。抵抗なく振りかえる唇に覆い被さるみたいに唇を重ね
長いながい口づけを交わした。
1月28日。
二人きりで過ごすようになってから、月と竜崎は、分かたれてはならない半身のごとく
有り余る時間を費やし、身体を繋げていたけれど。
今日はさらに特別だった。
一年前にキラの、夜神 月の死んだ日。
夜神 月の生まれ変わった日。
一日中、片時も離さず竜崎は月を抱く。月は竜崎を受け入れる。そうやって互いの存在の意味を確かめる。
たった二人だけの小さなちいさな世界。ほかには誰もなにも無い世界。
月と竜崎はこの場所で生きて、いきて、やがて死んでいくのだ。寿命が尽きるときに。
キラであった夜神 月は死んだ。今の月に、キラ当時の記憶はない。デスノートの所有権を放棄させ、月に憑いていた死神は
死神界に還っていった。
キラ事件は終わった。キラは月だった。
キラとして追い詰められ、銃で撃たれ、最期は死神によって命を奪われた。…かに見せかけて、実は月は生きている。
竜崎の計画どおり、死体と見せかけこの場所に運ばれて、デスノートと死神を失い、キラを失い、
なにもかもを喪い、ここにいる。
竜崎との取引に応じた死神リュークは、存外、情のある優しい死神だったらしい。
「いずれ俺がライトの名前をデスノートに書くことになる。それが死神界の掟だ」
と宣言していたものの、意外と、月のもつ本来の寿命直前に、その名を書く気がしている。
竜崎はそんな気がしている。
死ぬときは二人一緒に死ぬ。と、竜崎は決めている。月がどう思っているかは知らない。
竜崎も───Lも、生きていた。
デスノートに名前を書かれた竜崎は、万一に備えあらかじめ準備しておいた仮初の死によって、振り下ろされた死神の鎌から
辛くも逃れ得た。代わりにワタリが犠牲になってしまったのは、あまりに残念でならなかったが。
長い眠りから覚醒した瞬間。
竜崎は生きながら死者になった。そして自由になった。
もうLでなくなった自分は、正義も悪も立場も世の中も関係ない。より貪欲に、欲しいモノを欲しいまま求めて良いのだ。
方法も手段もなりふり構わず。
もしかしたら、この自由を得るために自分は「死んだ」のではないかとさえ、竜崎は自分を疑ったくらいだ。
まさにキラを、夜神 月を手に入れるための代償として。
存在しない存在は、暗闇にまぎれ比較的簡単に物事を進めることが出来る。最後に、キラの遺体を引き受ける際、
どうしてもL後継者の子供たちに秘密をバラす必要が生じたけれど
彼ら、ニアやメロは、なにも言わずなんの邪魔もせず、竜崎と連れ去られる月を見送った。
本能で分かっていたのだろう。不可触。手を出してはならない、と。
すべてと引きかえに、夜神 月だけを胸に抱えて、この場所に来た。
デスノートとキラに関する膨大な記憶を、ムリヤリ抉り取られた月は、目を醒ました時ひどく混乱し、困惑し、
言動にも支障をきたしていて、一歩まちがえれば人格崩壊に至りそうな危険があった。
それを竜崎が根気強く支えた。
本人がまるで覚えていない過去、まるで理解できない状況、まるで知らない月自身のことを、竜崎が丁寧に教えこんだ。
この白い箱庭は、あの世でも無の世界でもない。
現実の、地球上にあるどこかの国のどこか秘密の場所だ。
どこだかは知らないし知りたいと思わないし教えてもくれないだろう。月は目が醒めたらここにいて、酷い大怪我をしていて、
竜崎が傍らに付き添って手を握ってくれていて、
温かいぬくもりに、急に涙がこみあげるほど安心したのだけ、憶えている。
それ以来続いている二人きりの暮らし。
最初。にわかに信じがたい竜崎の説明に驚愕し、激しいショックを受けないでもなかったが
月は黙って頷いて、納得した。
納得せざるを得なかった。説得力のある男の言葉と、月の聡明な頭脳が弾きだした答えは、同一のモノだったから。
その真実から逃避できるほど、月の精神は弱くなかったから。
自分がキラであった事実と、自分の犯した罪深さを思い知って、
黙って存在を殺された。
「夜神 月は一年前に死んだ人間だ。実際、僕はもう二度と誰かに会うことも、ここから外に出ることもない。
それは死んでいると同じコトだよな」
「そうです。月くんは死にました。死んで、また新しく生まれたんです。私のために」
「オマエだけの為に?」
「はい。罰ですよ」
「ははは。ずいぶん都合の良い罰だな」
月にとって。
記憶は無い。でも毎夜の夢にみる。
自分は暗い場所にいた。遠くには明るい光があった。
ああ。アレが僕の求めていた理想郷だ。新世界だ。だけれどどれだけ手を伸ばしても、どうしてもソコに届かない。
そのうち必死で伸ばしていた掌は赤くあかく、血に塗れ穢れて哀しくなる。
哀しくて辛くて、痛くて苦しくて、
最期に思い浮かべたのは男の顔。すると、瞼を開けたらその男が目の前に居て、
「月くん」
と名を呼んで、伸ばした掌を握ってくれていた。
微笑んだ。
竜崎。
会いたかった。会いたかったんだ。ずっとずっとずっと、会いたかったんだよ。
5年前に死んだはずの男が生きていたという事。その男が、キラであった自分のために、どれほどの労力と努力を尽くして今、
自分が生かされているか。
あのニアよりメロより、この男は先を読み、どこまでも月を追い詰め追いかけ、ついには完全に己だけのモノとした、
その執念に。
キラでなくなった月は、本心から嬉しい、と笑った。
今日この日。死んで生まれ変わった自分。
竜崎によって殺され竜崎によって生かされ、もうキラでも夜神 月でもない自分。
竜崎も、Lではなくなった。
僕らは名もなき存在として、ただひとりの人間として、無くてはならない半身として
寄り添いあい抱きあって生きていく。
閉ざされた箱庭の片隅で、時おり、ソッと天を見上げながら。
空は昏い。相変わらず曇っている。雪がどんどん降ってくる。
もうすこし季節が過ぎれば、そのうち、この場所にも眩しく鮮やかな陽光が差すだろうか。
生まれ育ったあの国の空は、今日も美しいのだろうか。
世界中ひとつに天空は繋がっていて、想いも繋がっていて。届け、届け。
二度と会うことのない人たちへ。
生まれてきた事への感謝。生かされている事への謝罪。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。ごめんなさい。
二人でベッドのうえ、裸のまま固く抱き締めあっていると、ペロリと睫を舐められて
はじめて自分が泣いているのに気づき、ゴメンと微かに謝る月に、良いんですよと竜崎は低く囁く。
取るに足らない感傷も、今日は。今日だけは。
全身で感じる温もりに包まれ、万感の想いに胸をひたし、
ゆっくりと瞳を閉じた。
1月28日。晴天。吸い込まれるような青空と、降り注ぐ柔らかい太陽の光。
貴方がこの世に生まれ、死んでいくまで、生きてくれて良かったと、貴方という人を想うこの日。
皆が目を閉じ、想いを馳せる。
どこまでも澄みきった空に冷たい風が舞い、風に乗ってヒラリとひとひら雪が舞い、
すぐに日差しに溶けて、消えていった。
end.