「おはよう」

重厚な樫の木でつくられたアンティークの椅子。窓辺ちかくに置かれた、長い月日を経て飴色に染まったそれに、
今は腰かける人間は誰もいなく。
同じく年代もののキリムが敷かれた椅子のうえは、竜崎がくつろぎを求める為の大切なテリトリーの一部だ。
ふんぐあー
と彼は欠伸をした。猫はもともとが夜行性である。午睡のまどろみから醒めた竜崎は、顎が外れるほどに大きく
口を開くと
パクリと。
慌てて口を閉じた。
ソロリ…とあたりを、正確には目の前付近を凝視する。
さいわい、茶色の柔らかな毛並みをしたクルクル動く小さなちいさなクソ生意気ないきものは、その辺りには存在
しなかったので、ホッと安堵のため息をついた。
以前。ずいぶん前の話。出会った当初のころだが、丸まって眠る竜崎の鼻先に寄りそって眠っていた彼は、
目覚めた竜崎がいつもどおり「ふんぐあー」とやったのに、
 喰 わ れ る ……… !
それはもう哀しき小動物の本能で。
叫ぶことも逃げだすことも叶わず、茶色の綺麗な瞳をめいっぱい見開いたまま硬直して
ピクリとも動かなくなった仔ネズミの月に、竜崎の方が死ぬほど慌てた。
ちなみに月の長くてしなやかでこれまたクルクルよく動く尻尾が、驚いたり緊張したり恐怖したりすると、
ピンと針のように硬く鋭く伸びることを、竜崎はこのとき初めて知った。
さて。
本来であれば欠伸のあとは生理的に、思いきり伸びをしたいところである。しかししかし。
ここでも気をつけなければならない。
何故ならば、予想外の行動を起こす小さなちいさなクソ生意気な仔ネズミの月は、たまに蹲って眠る竜崎の腹の
なかに、潜りこんで寝ているときがあるからだ。
そりゃあ懐のなかは温かいでしょうが…竜崎もそう思う。しかしこれも以前に一度、不用意に竜崎が「うにゅー」と
伸びをしたおかげで、腹の下にいた月は「ぺしゃん」と潰されてしまった事があったのだ。
まさしくぺっしゃんこ。
これにも竜崎の方が死ぬほど慌てた。
さてさて。用心に用心を重ね様子を伺った結果、小さなちいさなクソ生意気な仔ネズミの月は、本日はどうやら竜崎の
フサフサした尻尾に埋もれて居眠り中らしく。
竜崎は中肉中背の黒猫である。血統書付×血統書付の純粋な雑種だが、黒々した豊かな毛並みといい、
ノソノソ威風堂々猫らしからぬ動きといい、隈つき目つきの悪さといい、
ハッキリ言ってそのへんの雑種とは思えない。
正直猫ともおもえない。
フサリ…とごく軽く尻尾を揺すると、ホウキみたいなそこからコロン…と茶色いかたまりが転がり出てきた。
ちいさく丸まっていたそれはやがてモソモソ身じろぎすると、ちいさな顔をピョコンとあげた。
竜崎の好むちいさな耳としなやかな尻尾がピルピルして、ふわわんと欠伸をもらす。
そのまま───
ガブリッ!
………たぶん。たぶん、だ。寝ぼけているのであろうとは、思う。
月は毎度毎回、目覚めるたび欠伸ついでに竜崎の何処彼処に噛みつく癖があって、それが鼻先だろうが腕だろうが
腹だろうが尻尾だろうがアソコだろうが…
あーおなか空いてるんですよね月くん。早くごはん食べにいきましょうねイタタ。
今日は貴方の好きなチーズがありますよイタタタ。だから早く離してくださいイタタタタ。イタタタタタ
痛い痛い痛いですってば月くんー!
寝ぼけた半眼のままでモグモグ竜崎の尻尾を租借している(たぶん美味しくはないだろう)月を、たまらずペロンッと
ひと舐めすると、パチッと竜崎の好む茶色の綺麗なきれいな瞳が開眼して、
不思議そうに竜崎をクリリと見つめた。
「…おはよ。竜崎」
「おはようございます月くん」
「フン。竜崎がいつまでも寝てるから、ごはん食べそこなったじゃないか。相変わらずの安楽探偵だな。僕はいい加減
おなかが空いたよ」
目覚めたとたんよく喋る月の、さきほど舐めた際に味わった甘く柔らかな食感を反芻しながら、
私もおなかが空いているので貴方を食べても良いですか月くん。
とは流石の竜崎にも言えなかった。明らかに冗談では通用しなかったので。
なので。
「では早速ワタリに食事の支度をさせましょう」
と代わりにそう言えば、いそいそと月は竜崎の背によじのぼってきた。
そうして小さなちいさなクソ生意気な、可愛くてキュートでたまらない、大切な親友の仔ネズミ月を背中に乗せて、
黒猫竜崎は悠然と、窓辺ちかくに置かれたアンティーク椅子からヒラリ身軽に飛び降りる。
という訳で本日も、ふたりはいつでも一緒である。

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