私は私の名前を知らない。私は私の生まれた日を知らない。
原風景は草叢のなか。背の丈ほどもある生茂った葦の影にかくれ、息を殺し身体を縮めている。
…タ…タタタタタ…タタタ………遠く聞こえる断続的な銃声。暗闇を仄かに照らす爆撃の光。
まっくらな空に、きらめく星は見えない。どこまでもつづく昏い世界。
泥濘につかる剥きだした素足の傷口から、トロトロ止め処なく血と体温が奪われていたが、
湿地帯を抜ければ待つのは地雷畑だ。三歩あるけば木っ端微塵に吹き飛ばされる。
どちらにしてもいつでもどこでも、死は、優しく私に寄り添ってくれていた。
私の過去はそこから始まる。
どれほど思い出そうとしても、それ以前の古い記憶はリプレイされない。
私の頭の壊れたレコーダーは、唐突に、プツリと、草原のなかを逃げ惑い、不安と恐怖に歪んだその映像から
再生をはじめるのだ。
だから私は自分が何者なのかを知らない。
なぜ戦場で小さな子供がたったひとり、幾日もいくにちも逃げ惑い、辛くも生を得ていたのか。
その奇跡の理由も、知らない。
私の瞬きをしない習性は、この頃、必然的に身についたらしい。瞼を閉じたほんの一瞬で命は簡単に奪われる。
睡眠に対する忌避感も深く根ざした。目を閉じたら二度と目覚める事はないかもしれないという強迫観念。
死にたくない死にたくない死にたくない。
本能でそう思っていた筈だが、なぜ死にたくないのか。なぜ生きているのかは、分かっていなかった。
生と死の狭間でそんなつまらないことを。ケモノは生の意味など考えない。虫ケラが己の命を自覚するか。
飢えと疲労で、常に耳鳴りと眩暈が止まらずに、地べたの泥水を飲み、口に入るものは嘔吐しながらでも何でも食べた。
やつれ果てた肉体とボロボロに擦り切れた心はやがて、苦痛も恐怖も感じなくなる。
ある日。
ほんのひととき。飛び交う銃声がピタリ…と止んだ。
穏やかな風がサワサワ優しく、葦の群と私の頬を撫でていった。
ボンヤリ、膝を抱えた両腕から上げた双眸に飛びこんできた、地平線の彼方に沈んでいく赤いあかい夕陽。
美しかった。
干からびた瞳が滲んだのを覚えている。生きている。生き延びなければ、と貪欲に叫んだのを覚えている。
掠れた絶叫は長くながく尾をひき、獣の咆哮にもよく似ていた。
幼い私は、まだ人間ですら、なかった。
私は私の名前を持っていない。私は私の誕生日を持っていない。
突然、大勢の大人たちに保護され、私はまったく別の世界に連れ出された。
まっしろで清潔なそこはひどく明るく眩しかった。昏くトロリと澱んだ暗闇に慣れていた私の頭と両眼は、激しく痛んだ。
親しんだ死と恐怖と苦痛のかわりに暖かい衣服と温かい食事を施され、
安全な寝床のなかで私はどうして良いか分からず、震えて蹲るばかりだった。
閉じこもったままの私に、大人たちは多くを問いかけてきたが、私はひとつも答えられない。
言葉が、喋れなかった。ショックによる精神的障害。過酷な状況下で、長い時間を他人と交わらずに過ごした影響。
「What
is your
name?」
name…名前。私の名前。
白衣を着た年老いた女性が、私を指差して発した単語だったことから
名前とは、私を表す呼称である、という事だけは推測できた。が。
My
name
is.
覚えていない。分からない。自分に名前がある、という認識すら。
名前。というモノが、ただ単に存在を指し示すだけの記号にすぎないならば、
いまの私は多くの名前を持っている。L、コイル、ドヌーブ、竜崎…しかしそれらは数多の内からひとつの部品を識別する為の
ナンバリングであり、あくまで記号でしか在り得ないモノ。
私は私の名前を持っていない。私はその施設で、ナンバー12と呼ばれた。
そして私はワタリと出会った。
ワタリ。キルシュ=ワイミー。
彼もまた、多くの名をもつ人間だ。天才的発明を行う頭脳で、世界的名声と天文学的な富を得た人物。
研究のかたわらその私財を投じ、養護施設を設立し、世界中の孤児たちの中から己の才能と財産を引き継ぐ後継者をさがしては
英才教育をほどこしている。
私が戦場のなかで生き延びたことが奇跡であれば、私がワタリと出会えたこともまた、奇跡である。
ワタリという養親に育てられた私は、やはり幸福だったのだろう。普通、子供は親を選べないのだから。
碌に言葉も話せない私だったが、受けさせられた知能診断は異常な数値を示していた。施設の大人たちに案内され、初めて相対した
ワタリは、静謐な瞳と柔和な表情のまま、
ジッと暫くのあいだ私を見つめていた。
彼はそれから、
「12番目の少年」
と呟いた。喋るたびにモソモソ動く口ひげに、何故だか興味を惹かれたのを記憶している。
A、B、C…と歌うみたいに数えあげ
「L」
と私を呼んだ。
L。私のことか。
「L…Life、Love、Law
and Light」
やんわりと納得げに微笑み、
「L=lawliet. Your name is L」
───私の名前はL。My name
is
L=lawliet.
それはナンバリングではない。記号ではない。私個人を表す、私の本質を示す名。
光のもとにあれ。正義を為す者であれと。こめられた祈りと願い。それが私の生の意味だと。
だから以後。私は探偵として身分を隠す立場になっても、Lを名乗り続ける。
私の人生の指針として。
その名前はワタリがつけてくれたのだ。
「L,Come here」
呼ばれ、差し伸べられた掌に掌を重ねた。
ワタリの手はカサカサと乾いていて、温かかった。
私は私の名前を与えられた。私は私の誕生日を与えられた。
ワタリは私にたくさんの知識を与えてくれた。各国の言葉、歴史、政治、経済、法律、スポーツ、ありとあらゆる雑学。
知識を得る楽しさも、得た知識を生かす方法も、学ぶという行為そのものについても、教えてくれた。
ちょうどワタリと共に過ごすようになって、一年が過ぎたころだ。
勉強は優等生だが日常の生活態度は破滅的な私を、当時世話をしてくれていた中年のメイドは厳しく叱った。
まともに食事をしない。不規則な睡眠。目に余る悪癖。奇異な態度。
それらはすべて、幼少時における悲惨な体験が及ぼした後遺症だったのだが、彼女は私の詳細については何も知らされていない。
ごく一般的な躾として、椅子のうえに足を上げるというだらしない姿勢で、
注意をまるで聞かずに甘味ばかり食べていた私の頬を平手で打ち、
「罰として、食事以外のおやつは禁止です」
厳かに言い放った。
まるで裁判長による死刑宣告のようだと感じた。
戦場で保護されて以来、私の知った最大の喜びのひとつは、甘味だ。泥水と草の根ばかりで極度の栄養失調に陥り、
味覚障害を起こしていた私にとって、甘い、という感覚は、忘れていた幸福、を無意識にも連想させた。
甘いモノを食べていれば私は幸せだったのだ。
ワタリは、そんな私の最大の理解者であった。さらにメイドが深刻に憂慮していた私の生活態度についても
きちんと教育的指導方針を持っていたのだろう。
一週間ほとんど食事も摂らず、閉じこもっていた私の部屋のドアが、トントントン…とノックされた。
「Yes?」
ソロリと扉を開くと、ジャック・オー・ランタンの扮装をしたワタリが
「Trick or
Treat!」
おどけて言ったので、ポカンと口を開いたまま固まってしまった。道化師ワタリの隣ではメイドの彼女が、呆れたみたいに
クスクス苦笑している。
二人に手を繋がれて、ダイニングに連れ出された。
カボチャや蝋燭で飾りつけられたテーブルのうえには、たっぷり生クリームと苺の大きな手作りケーキ。
チョコレートの手書き文字で
「Happy
birthday to L,October 31」
と書かれている。
Happy
birthday.
ワタリが与えてくれた多くのモノ。そのなかには、名前ともうひとつ。
いつか私が生まれた月日。誕生日。喪われていたバースデイ。
両眼を見張って、きょろきょろワタリと彼女を交互に見る。ワタリはいつもと変わらない柔和な笑顔をしていて、
毎日、根気よく私の面倒をみてくれていたメイドの中年女性は、母親の貌で微笑んでいた。
初めての誕生会だった。はじめて食べたバースデイケーキは、甘くて、美味しくて、一生涯忘れないだろう。
家族を持たない私にとって、かけがえのない懐かしい大切な記念日。
I
was
born.
その日、私ははじめて生まれた。
私は名を持ち、誕生日を持ち、はじめて私になった。
私が初めて探偵Lとして取り組んだ事件は、その、私の母親代わりを務めてくれたメイドの女性が殺された事件。
裕福な家庭での仕事を多く請け負っていた彼女は、権力者の秘密を知る機会も多く、
ゆえに事件に巻きこまれ、
連続殺人の被害者のひとりに、彼女の名前を見つけたとき。
事件を暴く過程で、彼女一個人の、人生の裏側をも暴いたとき。
胸が苦しかった。痛い、という感覚は久しぶりだった。
真実を知るのは大概、辛く、重い。初めてのやるせない複雑な感情に、自棄になり全て放り出しかけた私だったが
押し留めたのはやはりワタリと、
あの日の、母親のような彼女の微笑。
かけがえのない思い出をくれた、あの微笑みもまた彼女の真実なのだ。彼女に報いたい。彼女の死を、けして闇に葬っては
ならないのだと悟った。
光の下に、正義を。
私の名の持つ意味のとおりに。
事件は無事に解決した。
私は、私の生きる意味を知った。
私は、私として生きたいと願う。
戦場の死臭ただよう草叢から、仰ぎ見た赤い夕陽。血のように赤くあかくあかく、なのにどこまでも美しかったあの世界。
うつくしいと感じる私は、生きている。私は、生きているのだ。
人気のない閉ざされた屋内を、窓から照らす夕陽はいまも赤い。
名探偵Lとして、直接他者との接触を避け、隔離された部屋でパソコンに向かう日々。ワタリはいつの間にか私の保護者から、
補佐を務める立場に変わっていた。
しかし年を重ねても私の本能は、あの戦場の日のままだ。貪欲な、獣のまま、生の咆哮をあげ、謎をひたすら追い求める。
それがL=lawliet、すなわち私という人間。
日本の東京に移ってきたのは、前代未聞の大量連続殺人鬼「キラ」を捕まえるため。今度ばかりは名探偵Lも危ないかもしれない。
おそらく命がけの捜査になるだろう。
だからこそ私は生きる。そして真実を知り、正義を行ってみせる。
キラは、プロファイリングからも自身の正義と信念をもって、理知的に行動しているらしく伺えた。
一体キラはどんな人間なのだろうか。
幼稚で負けず嫌いで、私とソックリな性格の彼ないし彼女は。恵まれた家庭に育った裕福なこども。
死線を彷徨い、世の中の理不尽と暴力と修羅を知る私とは、まるで対照的な生き方をしてきた筈なのに、
キラは、やはり戦っているのか。この日本という平和な檻で囲まれた国のどこかで、
己として生きたいと。
己の掲げる正義と信念を貫きたいと。
ガラス窓から望む、夕暮れの赤一色に染まった都心の街並みが、不意に葦の群と重なった。
そのどこかから獰猛な唸り声が聞こえてくるようだった。
キラという名前を持つ、もう一匹の獣との生死を賭けた戦い。
負ける訳にはいかない。私が、私として生きる為に。
キラ容疑者である夜神 月との駆け引きは熾烈を極めたが。
私に追い詰められた彼は、唐突にキラの名前を捨ててしまった。
キラを捨て、夜神 月というひとりの人間に生まれ変わった彼は、今度は素のまま在りのままに私の真実を暴きにきた。
「そういえば、もうすぐハロウィンだな」
どういう流れでその会話になったかはよく覚えていない。
私が甘いモノばかりを食べているから。甘味を買出しに行った松田が、オレンジ色のカボチャがデザインされたパッケージの菓子を
大量に抱えて帰ってきたから。
そんな他愛ないキッカケで尋ねられた、竜崎は海外育ちだし、ハロウィンは好きだろう?
「ええ。大好きですよ」
なぜわざわざそんな風に答えたのか、理由もよく覚えていない。
「10月31日は、私の誕生日でもありますからね」
だからお菓子もバースデイケーキも両方食べられますし、大好きです。
そう言うと、夜神 月はまっすぐに光を弾く瞳をキョトンと丸くさせ、パチパチ瞬き、
それから嬉しそうに楽しそうに笑った。
「へえ。
じゃあもしキラ捜査に余裕があったら、31日はハロウィン兼竜崎のバースデイパーティーでもやろうか?」
そんな冗談のような軽いセリフに。弾むみたいな喜びを覚える。
彼も本気で信じてはいないだろうが。それでも、ハッピーバースデイ。夜神 月からそう告げられる瞬間を想像すると、
悪い気分は、しない。
三ヶ月におよぶ期間を手錠で繋がれ、一緒に捜査をし、寝食を共にし、
恋人よりも家族よりも密な関係を築いていたキラではない、夜神 月。
キラの疑いは別にして、私は彼に強い好意を持っていた。彼に祝ってもらうことは、ワタリと、あの女性に祝ってもらったあの時と同じ、
特別な記念日になるに違いない。
「いいですね。では特注のケーキでお願いします」
「贅沢だなあ。いつも松田さんに買ってきてもらうので満足しろよ」
「じゃあ折角のハロウィンパーティーですから、いっそ全員で仮装でもしますかね〜!
竜崎はそのまんま、メイクなしで狼男でもドラキュラでもいけますしね!」
「うるさいです松田いや松田さん。ハロウィンでなくバースデイです。私が主役です」
もし実現していれば、私の生涯二回目の誕生会になる予定だったその日は
結局、怒涛の展開を迎えたキラ事件で忙殺され、冷ややかに終わった。
私の生涯最期の誕生日。
その5日後に私は満たされて、生を終える。
唯一、夜神 月から、あの屈託ない笑顔でハッピーバースデイ、と言われなかった事だけが心残りだ。
我ながらいじましいが、切なくも思う。
計画どおりキラの名前を取りもどした彼。
キラに、私の愛した夜神 月は私より先に殺されてしまったから。
ワタリも私の一歩先を逝った。
そして息が止まる。
呆気ないが、これで終わりか。
傾ぐ身体をキラである夜神 月の腕が抱きとめた。冷酷な双眸が嘲るかの如く私を見下していたが、私に無念はなかった。
彼の胸中で、私は最期まで求めていた真実をついに得て、満足し、
とても幸せな気分で、瞼と、人生の幕をおろした。
私は私の名前を知らない。私は私の誕生日を知らない。
私は私の名前を持っていない。私は私の誕生日を持っていない。
私は私の名前を与えられた。私は私の誕生日を与えられた。
私は私の名前を持ち、誕生日を持ち、はじめて生まれた。はじめて私になった。はじめて私は私になった。
私は私の生きる意味を知り、私として生きたいと願った。
私は生まれてきて良かったと。
世界のすべてに限りない感謝と愛をこめて。
生まれてきて良かったと。
この世に生を受け、名をもらい、為すべき事を成して、欲しいモノを手に入れた。
私がこの瞬間まで生きてこられた奇跡に、ワタリに、出会ったすべての人たちに、限りない感謝と、
そして夜神 月に。
心からの愛をこめて。
my
name is, and my birthday is.