しあわせなんて誰がきめたの。
僕が不幸だなんてだれがいうの。
はじめて出会えたこころから想うひと。顔も声も指も仕草も、
いっしょにいた時間。かわした言葉。ふれた指先。はじめてのキス。はじめての涙。
刹那の熱。
わすれない。
この恋が不幸なのだとしても。この恋をした僕は、しあわせだった。
耳をつんざく貴婦人の嬌声。
卑猥に肩をだく男たちの体臭。
優雅にながれる音楽とともに、極彩色のマスクで欲望をかくし。
紳士淑女はかぎられた一夜だけ、名もない男と女になりさがる。
仮面舞踏会。
華やかな広間から逃れるように、さっさと男は葡萄酒を片手にバルコニーへと移動した。
ウンザリだった。くさい香水も甲高い声も値踏みする視線もよこされる露骨な誘いも、
仕事でなければだれがこんな場所に足を運ぶものか。さっさと帰りたい。
頬をなでる夜風が心地良い。ちかくに海浜があるので、微かに潮の香りをふくんだそれは苛立った気分を諌めてくれる。
───?
不意に。
耳をすませた。なにか違和感をかんじた。
職業柄、男の五感は研ぎ澄まされている。すぐに建物からすこし離れた茂みのおく、噴水のある辺りで、数人の人間が
揉みあっている気配に気づいた。
薄闇に浮かびあがるましろい肌。
月光をあびてまるでキラキラ輝くみたいに、晒されたその肌理こまやかな美しさに、男は息をのんだ。
甘く蕩ける蜂蜜色の髪と瞳。可憐な生花でかざられたちいさな頭は、激しい抵抗の動きにすっかり乱れてしまっている。
「誰だおまえは!」
争っていたはずの無礼者たちと同様に、とつぜんの不審な乱入者をにらみつけてくるその目。
一瞬にして惹きこまれた。
心臓を鷲掴まれた気がした。
いままで見てきた、誰よりもなによりもうつくしい、ひと。
「なにを見ている!さっさと失せろ!」
華奢な肢体に、怒鳴りつけてくる無礼者たちの手が触れているのを見て、男はスッと体温が下がったように
冷静さを取り戻す自分をかんじていた。…強烈な怒りとともに。
状況はひとめで判断がつく。押さえつけられている彼のひとが、身につけているのは遠目でもわかる高価な宝石。
上等のシルクのドレス。なによりプライドにあふれた、高貴な表情。
身分の高いひとだ。おそらく、この仮面舞踏会の最中に無礼者たちにうまく誘いだされ、ここに連れ込まれたのだろう。
そしてムリヤリ、陵辱されそうになっているのだろう。
「いくらこの舞踏会が無礼講とはいえ…ひとを呼びますよ?その方をはなしなさい」
低い声でそう言うと、束の間押し黙ったあと。
無礼者たちはいっせいに下卑た笑い声をあげた。
「なにを勘違いしているんだおまえ」
「俺たちは、ただ単に遊んでいただけだぜ?」
「ムリヤリ行為を迫るのが遊びですか?見たところこの舞踏会の招待客のようですが。館の主に、このことを伝えられ
ても良いのですか?」
さらに哂いは大きくなった。
「かまわないさ。俺たちはその主に許可を得てこうしているんだ」
「無理矢理なんかじゃない。合意のうえだよ」
なにを言っているんだコイツら。陵辱の現場を見られて、逆に開き直ったのだろうか。
ふと。視線をずらし、男はひそかに驚愕した。
襲われ傷つけられていたはずのそのひとは、俯きながら、
うっすらと。微笑んでいた。
「そいつはここの主の持ちものだ。愛人さ」
「主の許しさえあれば、何をしたってかまうものか」
指でさされた綺麗な人。
男の視線を感じて、伏せられていた瞼があがる。
「娼婦だからな!」
まっすぐに見つめてくる瞳は。
やはりうつくしかった。
「貴方の主人はそれを認めているのですか」
「まあね。あのひともう年だからさ。僕を満足させられなくて、僕がほかの男と親しくなるより自分の飼い犬たちと
遊んでいてくれた方が安心なんだ」
べつに欲求不満になんかならないのにねえ。ちいさく呟く。
娼婦はいつだってオトコを咥えこみたくて堪らない生き物だって、みんな考えているみたいだよ。
ホントはセックスなんて愉しいモノじゃないのにね。おかしいね。
「別にかまわないよ。僕の身体はみんなのもの。みんなで愛し、みんなで悦んでくれればそれで良いさ」
肩をすくめ月は鮮やかにわらう。あざやかに艶やかに、すべての存在に均等に惜しみなく。
愛と欲を与える軽薄な淑女。
つつましやかに微笑しながら、羽をひろげ燐粉をまきちらし、捕獲者を誘い、ヒラヒラヒラヒラ。花から花へ、ほんの
短い命の、夜の蝶。
「オマエはなにが欲しい?探偵さん。頼んでないけどいちおう助けてもらった恩義もあるし、オマエとの会話はとても
楽しかったからね。僕の身体をほんの少しだけあげるよ。
主の許可が下りていないからセックスはダメだけど、さわるくらいは許してあげる。
どこがいい?小指の爪?右瞳の睫?左足の踝?鎖骨の窪?胸の蕾?それとも髪をひとふさだけ?
それじゃ、つまらないだろう?
でも言っておくけどキスはダメだよ」
ほがらかに、どこか嘲りを滲ませて囁く月を、男の、底知れぬ夜の海のような黒い目がじっと見据えた。
「…では貴方の」
蜘蛛の足のごとく細長い指先が伸ばされる。
瞬間、かすかに目を眇めて、月の身体がこわばった。
「貴方の、うつくしい髪に挿された華を一輪」
スローモーションのように耳朶をかすめて、乱れた髪から抜きとられた赤い大輪。
ヒラリといちまい、花びらが舞った。
浜辺に音もなく落ちたそれを、しずかに波が浚う。
唖然とした。
「とりあえずこの花をいただきましょう」
「…へえ…僕自身には興味ないってわけだ」
「いいえ。貴方を欲しがらない男など、この世にはいないと思います」
男は月を、月の全身を凝視する。貫かれるそれに負けないよう、月は男をキツク睨みかえす。
「けれど私は月くんのすべてが欲しい。切り売りされる貴方の肉体だけなら、いまは欲しくありません」
「初対面なのに随分と熱烈だね。残念だけど、僕はいまの主のモノだ」
「知ってます。いずれ私のものにします」
「ははは」
侮蔑したみたいな声をあげて月は笑った。男の表情は変わらなかった。
「馬鹿な男」
「そうですか?」
「主のことを何も知らないんだな。…そうだね。いずれ、僕がオマエのモノになるといいね」
「はい」
夢を与えるようにやさしく言うと、男はコクリと頷いた。
やっぱりバカだな。
けれど。
誰の所有物になってもいい。それは本気だ。月は本気でそう思っている。
今の暮らしもそう悪くはない。高価なドレスを着て美味しい食事をして、豪華な部屋で眠る毎日。
若く綺麗ないまのうちだけ、主に愛でられて飾られて。
いずれ飽きて捨てられ、やがて誰にも拾われなくなり汚れた道端でのたれ死ぬ、その時まで。
この身体は誰のモノにでもなる便利な道具。誰にでも足をひらき誰にでも素直に抱かれ。
そして本当は、誰のモノにもならない。
「ですから私のモノにするまで、どうか大事にしてくださいね」
マジマジと男の顔を見てしまった。ちょっと、冗談を言っているのかと思った。
「これからは簡単に身体を売るような真似はしないでください」
しかも主のいる娼婦にむかってそんなことを言うなんて。
「あのな。僕は身体を売るのが仕事なんだ。大事にするもなにも」
「月くんの身体は月くんのモノです。誰に抱かれていてもそれをどうか忘れないでください。
生きていくためには確かに仕方の無い事なのかもしれない。けれど私が、貴方を救います。
だからどうぞそれまでは」
「会ったばかりなのに、ほんとにおかしな探偵だな。オマエがいったい幾ら稼いでいるのか知らないけれど、僕を
主から奪い取るのは無理だよ?本気で言っているならさっさと諦めた方がいい。
それに、僕からすればいまの主もオマエもおんなじだ。身体を売ることには変わりない」
月の綺麗なきれいな、甘い蜜を垂らす肉体ばかりを欲しがる、野蛮な雄。
みんないっしょだ。
それなのに目の前の男は。
「いいえ違います。さきほども言いました。私は、月くんのすべてが欲しいんです」
「貴方のものである貴方の身体と、こころで。私を愛してください」
馬鹿な男。
愚かな男。
「オマエ…名前は?」
「竜崎といいます。すみません本名ではないのですが」
「ふうん。別にいいよ。僕も自分の本当の名前なんて知らないし。
じゃあ竜崎………ありがとう」
透明な、表情を消し去ったまなざし。
月の白い掌が、そっと優雅に竜崎の頬を包んだ。
まばたきする間もなく。
くちびるの端に柔らかくあたたかい感触。
一瞬で離れると、月はドレスの裾を掲げしずかに砂浜を歩み去った。
いちども振り返らなかった。
竜崎は口許に指を押し当てる。カリッと爪を噛みながら、
「…キスはしないのではなかったのですか?」
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オフで出した「mascaraid」のサンプル版になります。娼婦月と探偵竜崎のパラレルです。
オンの方を先に書いたので内容や設定は変わっていますがドレス萌えなのは一緒です。
切り出しのssなのでストーリーが繋がっていなくてすみません。