甘い砂糖の匂いはあまり好きじゃない。
昔は嫌いでも好きでもなかったけれど、あの男のせいで苦手になった。正確には否応なくあの男を思い出すから、
キライになった。
手錠で二十四時間強制的に繋がれていたあの頃。強制だと感じられなくなるくらい、当たり前に隣にあったあの存在。
は、つねに甘い匂いを漂わせていたので。
目の前のテーブルに置かれている綺麗に飾られた丸いケーキ。白くて柔らかなデコレーションと赤い苺も、アイツを
連想させる。
苺は大好物だったんだ。いつも子供みたいに最後まで残しては、生クリームまみれのソレにフォークを突き刺し、
満足そうにパクリと平らげる。その横顔を横目で見ているうち、餌を取るなにかの爬虫類ぽいなあと考えた途端
吹き出しそうになったりして。堪えていたら目敏い男に何がおかしいんですかと尋ねられて返事に困ったりして…
ホラ。
無意識のうちに、食べ順から会話から情景までが鮮やかに脳裏に蘇る。我ながら心底余計な記憶力だ。
一度、あんまりにも甘味ジャンキーな男に、呆れ半分感心半分の溜息まじりで言ったことがあった。
竜崎は本当に甘いモノが好きなんだな。
はい好きですよ。疲労回復しますし頭も働きますし、おいしいです。月くんはあまり召し上がりませんね。
そうだね。粧裕や母さんはともかく、普段ウチでは父さんも僕も、甘いモノを食べる習慣はなかったからな。
ケーキなんてマトモに食べるのは、クリスマスと誕生日くらいだよ。
そう話すと男はカクリと首を傾げ、なにを思ったのか、
そうですか。じゃあ今度のクリスマスか、月くんの誕生日には、大きなケーキを買ってきて皆さんで一緒に食べましょう。
そのとき、季節はまだ夏だった。
正直、突然そんな提案を口にした竜崎にビックリしない訳でもなかったものの。
パチパチ瞬きして、すぐに、ああまあコレもこの男の一種独特の社交辞令というか
会話の流れの一部であるのだなと気づいて、ニコリと得意の笑顔を作って応えた。
そうだな。その頃にはキラ事件もぜんぶ片づいて、皆で祝杯でもあげられるといいな。
男はもしゃもしゃ四個目のケーキを租借しつつ飄々と、
クリスマスは12月、月くんの誕生日は2月ですよね。
大丈夫です。それまでにきっとキラは捕まります。正義の勝利と、聖なる夜と、この世界に生を受けた感謝を込めて、
ケーキと苺とシャンパンとクラッカーで盛大にお祝いしましょう。
あ。ちなみにケーキは一人あたりホール一台ですから。ガッツリ食べてくださいね。生クリームとチョコレート
どっちが良いですか?
ドッチもいらないよ。素気なく言い捨てると、僕は笑った。
竜崎もニンマリ、笑った。
言葉の裏に含むモノは多々あったかもしれない。
でも僕は当時キラでなかったし、キラでない僕と竜崎は、笑いあって約束を交わしたんだ。納得のうえではあったけれど
手錠で繋がれ、キラ容疑者として毎日監視されている立場で、くだらなくも他愛ないその約束が
ほんの少しだけ嬉しくも、あったんだ。
だから忘れられないのだろうか。鬱陶しい記憶。さっさと忘れたい。
竜崎はクリスマスも僕の誕生日もちゃんと知っていたが、僕は竜崎自身のバースデイをその頃まだ知らなかった。
竜崎は本名同様、最後まで個人データに関することは一切教えてくれなかったし、もし知っていたとしても
祝う気になんてならなかっただろう。なれなかっただろう。
誰にも祝福されずに終わった誕生日の数日後。
大好きな最後の苺を食べた時とおなじ、満たされた貌をして、男は死んだ。
「ゴメンね、ライト」
気にしなくていいから、ミサ。
今年のイブはやけに暖かい。雪の降るホワイトクリスマスどころか、コートも必要ないほどで、
仕事で夕方から出かけるミサは半袖ニットにジャケットという軽装だ。
テレビの生番組に出演するため、クリスマスイブの夜を二人きりで過ごせない事をミサはしきりと謝ってきたけれど、
まったく無問題だった。
ミサとロマンティックに夜を過ごしたいとは思っていない。キラにとって、彼女はとても重要な存在だが。
玄関から送り出してリビングに戻る。テーブルには、忙しい彼女がそれでもと手作りしたクリスマスケーキ。
仕事から帰ってきて深夜、二人で食べようと言っていた。構わないけど太るぞミサ。
ソファに腰を下ろし、部屋中に甘い香りを漂わせているソレを眺めた。
フと、左手首に視線を向けて、自分で馬鹿じゃないかと哂った。あれほど早く外れて欲しいと願った縛めの鎖。
だのにいま、隣にあの男が居ないことに違和感を感じているとは、ね。
竜崎が目の前から消え去って、二ヶ月近くが過ぎているのに。
だからキライなんだ。アイツを思い出させるモノすべてが。
せっかく命がけの勝負に勝ち。邪魔者はすべて消え去り。やっとこれから本格的に、新世界の創生がはじまる。
キラが世界に認められ、法律となり、世の中と人々は、清く正しいあるべき姿に生まれ変わる。
これでいい。まさに計画どおり。そしてじきに訪れるだろう、理想郷が誕生する奇跡の瞬間。僕は新世界の神になる。
そんな記念すべき刻を前にして、
居なくなった男を想って、寂しい、だなんて。
こんな、暗闇にたったひとり、取り残されたみたいな。
どうして僕がこんな想いをしなきゃならない。
振り返ったり、立ち止まっている暇はなかった。キラ捜査本部も兼ねているマンションのこの部屋は、防音にも優れている。
賑やかだろう街のざわめきも、通りの喧騒も、ジングルベルも、なにも聞こえない。
リンゴリンゴと煩い死神もミサに憑いて出ていってくれたので、仕事が捗りそうだった。師走から年末にかけては
浮ついた雰囲気のなか、犯罪も増加傾向にある。今日の分の、キラの裁きをしなくては。
そう思うのになぜか身体が動かない。
グラリ。急速な睡魔に襲われた。
静寂。沈黙。無音。
時計の針の音すら聞こえない。時間が止まる。
おかしい。体調が悪いのか。考える余裕すらなく、ズルズルとソファにくずおれた。ボンヤリ霞がかってきた思考が
取り留めなくループする。くだらない感傷。くだらない思い出。
圧倒的に無宗教者が多い日本人にとって、クリスマスは楽しく騒いで遊ぶための無邪気なイベント。甘ったるい一夜を過ごす
カップルや、グループで盛りあがる友人たち。穏やかな一家団欒と、はしゃぐ子供らの弾ける笑顔。
もし。もしも。
あの日の約束が果たされて、竜崎とふたりで居たら。とても有り得ない話だと分かっているけれど、もしも万一、
二人で過ごしていたとしたら。
今夜はどんな夜だったんだろうな。
瞼がゆっくり落ちてくるのを感じた。眠気に抗えなかった。居眠りをするなんて滅多にないのにどうして。
でも駄目だ。一時間だけ寝よう。
そうだ今晩はイブだから、目が覚めたらサンタクロースがプレゼントを置いていってくれているかもしれないな。
僕が欲しいプレゼントは何だったっけ。優しい人間だけの住む理想郷。新世界の神となること。大切な人たちの幸福。
それから、
───ケーキを一緒に食べましょうね。
いつかどこかで聞いた、泣きたくなる懐かしい声に誘われて、
孤独な夜から、夢の腕へ。