夜の国を離れてからしばらくすると、月はよく夢をみるようになっていた。
ちいさなころから寝つきが良く眠りも深かったので、自分でも不思議な気がしたが、環境が変わったせいでそれなりに
ストレスを感じているのだろうと冷静に考えて、あまり気にもとめなかった。
波に揺れる船の中で、みる夢はだいたい同じようなものだった。
幼いころ。父親の夜神に手をひかれ、雪祭りに行った時。
冷気が痺れるほど肌に痛い夜、見上げた空を煌々と照らす黄色い月明かり。
暗闇にキラキラかがやき、ふりそそぐダイヤモンドダスト。
吐息が白く煙るむこうに、笑顔で手をふる国民たち。
差し出された湯気のたつミルク。
この国では貴重なチョコレートの甘さ。
パチパチ音をたてながらゆらゆら揺らめく篝火。照らしだされた精巧な雪の彫刻たちが、列をなす壮観な氷原野。
かぎりなく広がる景色。なんて綺麗。夢のような光景。
歓声。祝福。笑い声。
美しいうつくしい私たちの夜の国。
見上げた父親の誇らしげな笑顔にとても嬉しくなって、はしゃいでいる月の頭をやさしく撫でてくれたのは誰だったろう。
これはまちがいなく夢なのに、
つないだ父親の手はあたたかかった。

目の前にある右手をにぎる手は父のものじゃない。
ずっと細く、長い指。爪は荒れてギザギザだけれど、思いのほか繊細な動きでそっと月の掌を撫でている。
それからその指先が眦をなぞるのを、月は夢うつつにボンヤリ感じた。
「…泣いているのですか…?」
囁かれた声が誰のものかもわからない。
なにを言っているかもわからない。
夢のなかの、篝火の爆ぜる音も聞こえない。月の名を呼ぶ父の声も、もう。
二度と。
夜のしじまに溶ける波の音だけがただ静寂を満たしていて。
月の瞼がゆっくり閉じる。
そのままふたたび眠りの淵に、しずんでいった。

日に日に陽はながく、気温は暑く、肌にまとわりつく大気は重くなり、かわりに海の蒼は透明度をましていく。
部屋に閉じこもりっぱなしでは気分も塞ぐうえに体調にもよくないと、竜崎は半ば無理矢理、月を海賊船の甲板に誘いだす
ようになっていた。
月にしてみればそこまでするのであれば、一度くらい旅船に戻らせて欲しいとも思うのだが、さすがにそれは竜崎の許しが
出ない。
紳士なのか粗野なのか、気前がいいのかケチなのか。どうにも判別がつきかねる竜崎という男だったが、一回だけ。
甲板ごしに旅船の従者たちと言葉をかわす機会が与えられて、月は嬉しかった。
「僕は大丈夫。心配いらないから」
「ライト!ライト!」
ミサが身を乗りだすようにして叫んでいる。船が傾くほど一箇所にあつまり、口々に呼びかける人たちに手をふって、
月は笑ってみせた。
本当に大丈夫だから。
彼らは仕事で月に付いて来た人たちだけれど、本心から月の身を案じているのもまた、事実だった。
だからどうか心配しないで。これ以上、自分のために心を痛めないで欲しい。
手をふりながらどこか遠い目で彼らを見つめる月の姿を、竜崎がうしろからじっと見守る。
甲板に吹く海風は湿気をふくんでいるものの想像以上に爽やかで、暑さ負けしていた身体には心地良かった。
「すこしは気が紛れますか」
「そうだね。結構、風がきもちいいな。これならこの暑さも我慢できそうだ」
「月くんは順応力が高い反面、溜め込みやすい気質でもありそうですからね。我慢もけっこうですが限界がくるまえに発散して
ください」
「ははは。僕がそんなヤワなわけないだろう」
はためくドレスの裾を押さえ、軽く笑いながらいなした月に、竜崎は複雑そうな目を向ける。
自覚がないんですねと呟いた男の声は、風に流され、届かない。
「眠っているときにしか泣けないなんて」
「ん?なんだって?よく聞こえないよ」
「…なんでもありません」
その時。海を見ていた月が、波の狭間になにかを見つけたらしい。
驚きの声をあげていきなり細い肢体が手すりを乗りこえそうになったので、竜崎の方がギョッとした。
「ちょっ…月くん!あぶないですよ!」
「竜崎!ホラあそこ!あそこに何かいるっ!」
「え…ああ…アレは…海豚の群れですよ」
慌てて両腕で月の腰を抱きかかえて、指さした方向を確認した竜崎は気の抜けた声をだした。
青海原を駆けるいくつかのまとまった黒い影。船と並走するみたいに走り抜けるそれは、海水温度の高い海域に生息する海の
いきものたち。
別段めずらしいモノでも何でもない。しかし、月は目を輝かせた。
「海豚…?すごいな…はじめて見るよ。あんなに早く泳ぐんだ…」
「そうなんですか?海豚自体はご存知なのに?」
「うん。本では読んだことあるけど、実物なんて知らないよ。夜の国周辺の海域にはいないだろう?」
「そうですね。鯱はいると思いますが海豚はいないでしょうね。だいたいあの辺りの海は大概、氷に閉ざされてますし」
「…今まで海って、暗くて冷たくて怖いイメージしかなかったんだ。…僕は実際に海に出たこともなかったしね。
こんなに青くて綺麗だなんて知らなかった…」
飽きることなく波と、浮き沈みしながら泳ぐちいさな影を見つめている。
そんな月の横顔を竜崎は見つめる。
「うわっ!」
突然高くたかく、船の真横でイルカが跳ねた。
白い腹を見せながら空中で回転し、しぶきをあげてふたたび海に潜る。
呆気にとられている間にもう一度。もういちど。何回もなんかいも。
「凄いすごい!」
「海豚は好奇心旺盛な生き物なんですよ。エンジン音等にひかれて船のまわりにはよく集まってきます。警戒心もつよいですが
何もしなければ、機嫌が良いときにはこうしてダンスも見せてくれます」
「すごい…可愛い…かわいい…」
茫然と『かわいい』をくりかえす。竜崎が支えていなければ今にも船から落ちそうになりながら、感激しきったように目を見開いて
いる月の方が、よほど可愛いと竜崎は思う。
イルカとおなじくらい好奇心旺盛らしい月の様子は、年相応の幼さを感じさせて、とても好ましかった。
「陽の国に近づけばもっと色々な生物と出会えると思います。
それだけじゃありません。私と一緒にいれば、月くんが今まで見たこともないモノが、これからたくさん見られます」
期待していてください。華奢な肩を抱きながらそう、耳元で囁いた。
この世の中に無数にある、貴方の知らない綺麗なもの美しいものすばらしいもの。
私がすべて、教えてあげたい。
やっとイルカから目を離した月は、キョトンと。しばし竜崎の顔を眺めてまばたきしたあと。
「へえ…竜崎って…面白いね」
はじめて男にみせた純粋な興味と無邪気な微笑に。
こころが震えた。