夕食をすませたころに、出かけていた竜崎がようやく戻ってきた。
「おかえり」
「ただいま帰りました」
月の部屋に直帰したらしい男は、言いながら腰を抱いて顔を寄せてくるので、その頬に軽くキスをする。
ヘンな顔で喜んでいる様子に面白いなあと好ましくおもいながら、月は話しかけた。
「船の方はどうだった?トラブルは起こらなかったか?いま、皆はどこに居るんだ?」
「帰属国印を誤魔化して、ちゃんと陽の国の港に停泊してますよ。いつもの手です。
問題も特にはありません。兄からの報せで私が王宮にもどった時点で、皆、それなりに推測はしていたようです。
L交替の旨を告げても、比較的冷静でした。これなら思ったよりスムーズに引き継ぎができそうです」
「そう…でも、寂しいね」
「二度と会えなくなる訳でもありませんし。アイバーとウェディですが、べつの仕事のために本日、陽の国を離れました。
月くんに宜しく伝えてくれとの事です」
「ああうん。ふたりには随分助けてもらったから、僕からもちゃんと御礼が言いたかったよ」
「アイバーからは『気高く咲く花のように美しい貴方のことは忘れない。またの再会を心より楽しみに』で、
ウェディからは『ライトは剣の腕も立つし強いから、Lが浮気したら切り刻んでやりなさい』だそうです。
………伝える義理はないのですが、いちおう伝えましたので」
「ははは」
あのふたりらしいと声を立てて笑って、ほんの少しだけ切ない感情に、月は瞳を眇めた。
竜崎の船のうえで短くはない時間をともに過ごした人たち。
仲間と呼ぶにはおこがましいけれど、一緒に戦い、一緒に苦難を乗りこえた。
「本当に…また、会えるといいな…」
「会えますよ。ちなみにワタリは私に付いて船を降りますので、これからは王宮でも顔を合わせますね」
「え?!ワタリさんこっちに来るんだ!」
「ワタリはもともと、幼少時からの私の教育係でしたから。王族に仕える一族の人間なのです。
もういい年ですし、陸に上がるのはむしろ喜ぶと思います」
「そう。それは嬉しいけど…じゃあお兄さんを補佐する人は、ちゃんとべつに居るんだな」
「───月くん。兄が次期Lになると、誰から聞いたのですか?」
「え。お兄さんからだよ。今日の昼間に話したから」
言った瞬間。
ビシリ!と竜崎の気配が凍結したので、マズかったのかと月は首を竦める。
もしかしたら今まで気づかなかったけれど、竜崎と竜崎の兄とは、普段からあまり仲が良くないのかもしれない。あの兄に対しこの弟だ。
その可能性をまったく考慮していなかった事に気づいて、月はシマッタと後悔した。
「なにを話したのですか」
「え…ええと…いろいろ…竜崎の事とか………」
主に竜崎の悪口とか。それと口説かれたりとか。とても言えないな。
「あの人は…またひとの留守を狙ってコソコソと…!」
吐き捨てるみたいな地を這う低いつぶやきに、本気で血をみる兄弟喧嘩が勃発する前に、お兄さんには是非にとも早く
Lとして出かけて欲しいと願わざるを得ない。
Lとして。今度は竜崎の兄がLの名を継ぎ、竜崎が太陽の王の名を───
「あ」
月は気の抜けた声をあげた。
「なんですか?」
「名前。…まだ聞いてなかった」
竜崎の本当の名前。竜崎のお兄さん、の本当の名前。
男は爪を噛みながらカクリと首を傾げた。
「ああ…すみませんそういえば。べつに勿体ぶることでもないですが。
実はですね───太陽の王を継ぐ者には、代々名前は存在しません」
「───は?」
「それから、Lを継ぐ者にも。正式な名はありません」
パチリパチリと、不可解な、信用していない表情でまばたきする月に苦笑して、竜崎は補足説明を付け加える。
「王は国民のために国を統べる存在として、あえて個人名を有さず『太陽の王』とだけ冠する。それが陽の国王室の決まりごとです。
それからLも、おなじく陽の国の為だけに存在する。なので光の『Light』からLの文字をとり、そう名乗っています。
もちろん海賊としての偽名はいくつも使い分けますが」
「じゃあ…竜崎っていうのは…」
「それは偽名ではありませんよ。私の母方の一族名が『竜崎』でした。ちなみに兄の母方は『流河』です。
本名ではありませんが通りも良いので便宜上、その名を多く使用していますね」
「…そんな…本当に…名前がないのか…そんなのって」
いくら国のために、その為だけに生まれてきた存在と言われても、それはあまりに。
月。ライト。奇しくもLとおなじ名前。父親である国王夜神 総一郎と、母親の幸子がつけてくれた大切な名前。
月に照らされた夜の国で、健やかであるように、しあわせであるようにと。そんな想いが込められる筈の名前を、与えられずに育てられた
こどもたち。
竜崎が、なぜ我儘を押し通してまで王室を離れたがったのか。
ほんのわずかに理解できる気がした。
クシャリと歪んだ月の美貌をみて男は苦笑を濃くする。腕を伸ばすと陶器のような皇かな頬を撫でた。
そのまま引きよせ、強く抱きすくめた。
「月くんが気にすることではありません」
「………でも僕は…夜の国王室に生まれて、自分が不幸だなんて思ったことは一度もないよ…」
「私も自分が不幸だと感じたことはありませんよ。逆にいまは、この王宮でとても満たされ幸せだと思っています」
顎をすくい上向いた顔に口づける。
淡く色づいた唇からすんなりした鼻梁へ、柔らかな頬へ、形の良い耳朶へ、
キスをふらせ啄ばみ触れるだけの愛撫を施し、それから耳元で微かに、囁いた。
「───………」
「え?」
驚いて見つめあう。
「名前を持ってはいけない私に、亡き母が秘密で与えてくれた名前です。
だからこれが、私の本名です。
この事を知っているのは他にワタリだけですが、月くんにも知っておいて欲しかった。だから皆にはナイショにして下さいね」
「竜崎…」
「はい。これからも私のことは竜崎と」
「………うん…わかった。ありがとう」
フワッと、眦を和ませて。
睫が触れあうくらい間近に顔と顔を寄せて、ほかの誰にも聞こえない声で、
月が竜崎のほんとうの名を呼ぶ。
何度もなんども、その名を呼ぶ。
互いにまわした腕で抱き締めあって、髪を弄り、クスクスと笑い、繰り返しくりかえし甘いキスを。
「なんだか竜崎じゃないみたいだな」
「新鮮ですか?ではベッドのなかで呼ぶのは解禁ということで」
「馬鹿」
嬉しくて。あたたかくて。しあわせで。零れるほほえみと涙を、止められない。
いつか。いつの日か。皆のまえでオマエの名を呼びたいよ竜崎。太陽の王としてでなく、Lとしてでなく。ひとりの人間としてオマエを
愛した僕と、そのこどもたちには。
きっとそれが赦される筈だから。
その日までの大切なふたりの秘密。愛し愛された証。竜崎の、本当の名前。

「ライト───!!」
久しぶりに聞く声に、ビックリして振りかえった。
日中は風通しのために開け放たれた扉から、見慣れた金髪が駆けこんでくる。
「ミサ!」
驚愕のつぎは綻ぶ笑顔で、月は胸に飛びこんできた小柄な少女を抱きとめた。
「ライト!ライト!良かった!ずっと心配してたの!
ずっと会えなくて、ライトは凄く具合が悪いから会っちゃダメだって聞いてて、どうしようって…
ミサ、ホントにどうしたらいいんだろうって…心配で心配で………」
「ミサ…」
「もう平気なの?まだ調子が良くないからベッドにいるんだよね?これからはミサが付っきりで看病してあげるから!」
涙声で勢いよく捲したてる少女に、月は優しく笑いかけた。
「ありがとうミサ。心配かけてすまなかった。でももう僕は、大丈夫だ」
旅船が陽の国に到着して、太陽の王と謁見するために従者たちと別れてから何だかんだでひと月近くが経過している。
倒れていたとはいえその間、月は彼らと音信不通で、ミサも、従者たちもそれは心配する筈だ。
「これから皆にも会って、ちゃんと説明するよ。色々あったけど僕は、正式に太陽の王の后になる。
だから婚礼の儀が執り行われれば、皆もようやく夜の国に帰ることが出来るんだ。不安にさせてすまなかったけれどこれで」
「うん。それは竜崎さんから聞いたから、みんなも知ってる。でもミサはライトが心配だから夜の国には帰らないし」
「───な!
なに言ってんだミサ!旅船に乗って帰らなかったら、次にいつ帰れるか…もしかしたら二度と夜の国には…」
「わかってるよそんなこと。でもライトだってこの国に残るんでしょう?だったらミサも残る。
他のみんなも、仕事とか家族とかで帰らなきゃなんない人は別にして、半分くらいは陽の国にいるって。
ライトひとりだけ残しては、帰れないって。
もう竜崎さんにも伝えて、了解とってあるから」
「そんな…」
「あのねライト」
年齢よりもずっと幼く見えて、月にとってまるで妹の粧祐と同じように可愛がっていたミサは、
急に大人びた貌をすると初めて聞く声で、月に告げた。
「私たちはみんな、ライトのことが好きだよ。ライトが王室の人間だからだとか、仕える主だからだとか、そういうんじゃなくてね。
そりゃライトには使命があって、国民とか夜の国とか、守らなきゃなんないって。そういう凄く大変なモノ背負ってるって。それって簡単な
コトじゃないと思うけど。
でもね。ライトが私たち皆を守りたいと思ってくれてるように、私たちも、ライトを守りたいって思ってるの。
ライトに、私たちの犠牲になるんじゃなくて、ホントに幸せになって欲しいって願ってるの。
そういうのライトには重荷なのかな。だから言えなかったけど。でもミサはもう決めたから」
「ミサ」
「竜崎さんにね。その話したら、いつか必ず全員いっしょに、夜の国に連れて帰りますって。
ライトは自分のお嫁さんになるから一時的な里帰りでしかないけど、ミサたちはもし望むならそのとき夜の国に戻ればいいってさ。
それ聞いてすんごいムカついたんだけどー!『私は月くんさえ居てくださればそれでいいですから、皆さんはお好きにどうぞ』ってさー!
なによアイツ!
でも『月くんは喜ぶと思います。あのひとは皆さんを誤解している部分がありますから、ミサさんたちの気持ちを月くんに伝えてあげて
下さい』ってね。それ聞いてやっとミサも決心したの。
ちょっとムカツクけどよく分かってんじゃん竜崎」
「…でもミサ。簡単に言うけど、ここは異国なんだ。環境も違えは生活基盤もまったくちがう国なんだ。
仕事は王室から貰えるかもしれないが、日常はどうするんだ。家族もいない女の子がたった一人で、安穏と暮らしていけるほど甘くは」
「あ!平気平気!ミサひとりじゃなくて、男みつけたから!」
「………男…って…恋人が出来たのか?!ミサ!」
「マッツーていうんだけど。うーん…恋人っていうほどじゃないかな?ぜんぜん頼りにならないし。
でもまあ使用人代わりっていうか、彼氏でもまあまあOKてゆうか?」
ミサのむごい言い方と予想外の展開に、月は開いた口が塞がらない。
それを見て少女はいつもみたいに幼く笑うと、月に抱きついた。
「だから!ミサもみんなも、ライトのことが大好きだから!」
「…ああ、そう」
「ライトに幸せになって欲しいって応援してるから」
「…ミサ」
「…しあわせになってね、ライト…だいすきだよ………竜崎さんと、ぜったいしあわせになってね………」
「…ん。ありがとう」
ポロポロと。肩に顔を埋めて泣きじゃくるミサの背を、月は静かに撫でさする。
そうしながらこみあげてくるモノに、噛み締めるように実感した。
売られる人形なんかじゃなかったんだ。どれだけ大切に想われていたか。
ずっと。夜の国のために。守るべきひとたちのために。そう考えていた自分が、ほんとうは彼らみんなに守られていたのだと。
ユラユラ潤み滲む視界に、月は瞳を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは雪景色。あたたかいオレンジ色の松明。やさしい月明かり。
暗闇にキラキラかがやき、ふりそそぐダイヤモンドダスト。
白い吐息が煙るむこうで、笑顔で手をふる懐かしいひとたち。
父さん母さん。粧祐。みんな。
ありがとう。
私たちの祖国。夜の国。うつくしくいとしい、私たちの故郷。
いつか一緒に還ろう。もう一度あの景色に、あの人たちと会うために。竜崎、オマエといっしょに。
懐かしみ還りたい場所が、思い出がある。
それはとても幸福なことなのだと、いまは思えるから。

陽の国で眺める夕日は、いつか船上でみたソレよりも赤く、眩しく、鮮やかだった。
視界を焼きつくすほどの残光はやがて薄れ、空はしだいに群青に、かわりにポカリと月が雲の波間にうかぶ。
「月くん」
声をかけられたけれど、ワザと振り向かなかった。そうしたら後ろから男の両腕が月を包みこんで、触れあう体温の心地よさに身を任せ
静かに目をつむった。
あたたかい夜風が吹きぬける。月のましろいドレスがフワリと揺れる。肌理細かな素肌が月光を弾く。
サラサラながれるヘイゼルの髪に顔をうずめて、竜崎が宥めるように言った。
「あまり風に当たりすぎるのも身体に良くありません。まだ本調子ではないでしょう?
もうすぐ挙式も近いのですから、くれぐれも大事にして」
「竜崎」
視線は逸らしたまま、つぶやいた。
「ミサたちのこと…今日聞いた」
ありがとう、と続くはずだったセリフは、すこし強引に重ねられた唇で言葉にならなかったけれど。
あまりにも今更で、それでも溢れるままに伝えたくて。
「今まで生きてきて、オマエに出会えて、本当によかった」
キスの合間に囁いたら、フ、と掠れた男の吐息が微笑んだ。
「ずいぶん、泣かせてしまいましたけどね」
「僕も困らせただろう」
「お互い様ですか」
「そうだな」
竜崎の隈で縁取られた深淵の双眸。最初から変わらず、月を見つめ続ける黒い瞳。
顔色が悪くて、猫背で、ヘンな癖ばかりで、恰好よくて、頼もしくて、情けなくて、頭は良くて、馬鹿で、大人で、こどもで。
月が誰よりも愛するたったひとりの男。
ならず者の海賊と、売られる王室の人形として海のうえで出会った。敵として剣をまじえたあの時から、すべてが始まっていた。
そうして今は抱き合っているこの運命の不思議。
「まだ、あの日からそんなに経ってないのにな」
「私たちが巡り会ってから」
「ずいぶん長く、旅してきた気がするよ」
「そうですね」
「色々あったから」
「はい。でも、これからですよ。これから二人で、自由と幸せを」
これから。新しい物語を。
「一緒に頑張りましょうね月くん」
「ん」
視線をあわせて、言葉が途切れると、抱き締める腕が強くなった。
夜の国でも陽の国でも、変わらない月明かりがふたりを照らしている。散りばめられた星の輝きが瞬いている。
夜空に煌めく数多の星のように、出会い、別れ、すれちがい、絶え間なく流れ軌跡をえがく命のなかで。
いま隣に、ともに在れるよろこびを。
掌を重ね指をからめて、固く握りあって。二度と離さない。離れない。互いが互いの生きるよろこび。
泣かないでくださいと困ったみたいな声に、笑った。
泣いてないよ。
しあわせだからね。
ずっと、ずっとずっとずっと。永遠に。
誰よりもなによりもたいせつなものそれは貴方。
いつまでもそばにいて。

愛してる。


light and sun. happy end.