これ以上はけして裏切るんじゃないぞ───弟よ。
「弟…?」
どれくらいの間だろう。
時が止まったようにシンと静まり返っていた室内に、ポツリと月の洩らしたちいさな声と吐息が落ちた。
「───月くん!」
それを切欠に呪縛が解かれて、竜崎は慌てて月に腕をのばす。
呟くと同時に月の肢体が前のめりにベッドに崩れ落ちて、急いで抱えおこした竜崎はソッと、力の抜けた細い身体を慎重に
シーツのうえに横たわらせた。
覗きこんだ貌は蒼白く、脳貧血を起こしているのかもしれない。だいぶん復調してきていたので大丈夫かと思っていたが、
やはりまだショックが大きかったか。
「平気…眩暈がするだけだ…すぐに良くなる…」
竜崎の思考が伝わったみたいに月が掠れた声で言った。
ベッドサイドに置いてある、冷たい水に浸した布をその形よい額に乗せながら、竜崎はキツく親指を噛み締めた。
「すみません…また無理をさせてしまいました」
「だから平気だって。そんな声だすなよ」
目を閉じたままの月がわずかに微笑む。その唇の端に、触れるか触れないかのキスをおくり。
太陽の王と会い、言葉を交わすだけでも今の月にとっては相当のプレッシャーだったろう。しかも訳もわからず聞かされた話の
内容がアレである。
緊張と混乱と、これ以上の負荷はせっかく治りかけている体調にも悪影響を及ぼしかねない。
そう考えて。竜崎は出来るだけ穏やかに労わる態度で、事の切り上げを試みる。
「話はまた後にしましょう。すこし休んでください」
「………逃げるのか」
返ってきたのは月の冷ややかな声音だった。
冷たく聞こえてもその裏には包みきれない不安を孕んだ、哀しい声。
「またそうやって逃げるのか。僕から…竜崎」
また。あの日みたいに。何も話さずひとつの説明もなく、月の前から消え去っていった、あのときのように。
喪失の予感がフラッシュバックして罅割れそうで、寸前。
掴みとられた手を強く握られて、月は瞼をひらいた。
「いいえ」
間近に男の双眸があった。黒い隈がきざまれた虹彩のない無表情な、けれど真摯な、光。
「いいえ」
力強く不安を打ち消され、秀麗な貌が泣きだしそうに歪む。
「いいえ。私はもう、逃げも隠れもしません。もう二度と、けして月くんから離れません。約束します。
自分の弱さ、卑怯さ、自分勝手な行動がどれだけ貴方を哀しませ、傷つけたか。
私は月くんを完全に失う直前でやっとそれに気づいた、どうしようもない愚か者です。
やっと、目が覚めました。貴方は私のために祖国も、守りたいと願った大切なひとたちも、自分の命すらも捨てようとしてくれた。
その想いに私も応えたい。何かを得るために何かを捨てなければならないというのであれば、
私も、私の全てを捨てて月くんを望みます。
だから赦されるなら。もしこれから全部を打ち明けたあと、それでも貴方が私を赦し、私を愛して貰えるなら。
これからもずっと一緒に。ずっとずっとずっと」
「竜崎」
「以前に言いましたね。いつか月くんに聞いて欲しいと。話したいことが、たくさんあると。
貴方に知って貰いたい私のこと。家族のこと。仲間のこと。船や仕事のこと。今まで過ごしてきた時間。
辛かったことや楽しかったことや、過去も未来も、それから」
「竜崎の、本当の名前」
「…はい。月くんに呼んで欲しい、私の本当の名前」
仰向けに横たわったまま、月は竜崎を見つめた。
明るく煌くヘイゼルの美しいまなざしを、深淵の黒い瞳が見つめ返した。
「僕はずっと…竜崎が話してくれるのを、待っていたんだ」
航海の途中、なにも語ろうとしない竜崎に不満と不信感を募らせた。
話してくれないのは竜崎が月を信用していないからだと、所詮、男の想いはその程度であり、月と竜崎はその程度の関係でしか
在りえないのだと、ひどく哀しくおもった。ザックリ胸を切りつけられた様に感じた。
だけど、長く竜崎の腹心をつとめる老人に諭されて、やっと、待つことに決めた。
相手の過去を知らなくても、ひとつも教えてもらえなくても。
いま目の前にいる男がすべてなのだと、いま交わす言葉、微笑み、あたたかな感情、優しい時間、切ないきもち。
命を懸けて自分たちを守ってくれた、竜崎の想い。
それだけで良かったから。信じられたから。愛することができたから。
だからずっと、僕は待ってたよ竜崎。
「はい。…すみません」
「ん。嬉しい」
「怒らないんですか?私は月くんに嘘をついていたんですよ。月くんを騙していた」
「怒らないって言えばそれこそ嘘になるけど。でも、竜崎は僕を騙してたんじゃなくて、話せなかっただけだろう?
ワタリさんが以前に言ってた。言葉で全てがわかる訳でもないって。竜崎は隠し事のおおい人間で、相手を大切に思うからこそ、
秘密をつくるんだって。一緒にいて、同じ時間を過ごすなかで、自分の目で真実を知る方が大事だって。
僕もあれからオマエのことは何も尋ねなかった。だから、いいんだ」
「月くん…」
「でも今は知りたい。オマエの口から聞きたい。もう僕は、聞かなきゃならないだろう。
───竜崎。オマエはいったい何者なんだ?」
「それは」
知りたくない筈がない。出会ったときからの疑問の答え。
なのにいま、知るのが怖い。
「月くん!」
グニャリッと視界がつぶれる激しい眩暈のつぎには吐き気まで襲ってきて、さきほど摂った昼食を吐き戻しそうな悪寒に
月は肌を粟立たせ身を竦める。
情けないな…こころの内で苦笑した。
自分で呆れるくらい。こんなに身体もこころも弱りきってしまって。
隠されていた真実を知ることで、もしかしたら竜崎を失う結果になるかもしれない。
それがこんなにも怖いなんて。こんなにも自分が、臆病になっているなんて。
「…やはり話は、もうすこし落ち着いてからにしましょう。まずは安静にして、眠ってください」
反論しようとした唇を塞がれた。拒めるほど月には気力体力が残されていなかった。
キスの合間に煎湯を含まされ、飲まされる。咽喉をすべり落ちていく清涼感にスッと胸の悪さが楽になり、
月はふたたび長い睫を伏せた。
「絶対に逃げません。離れません。約束します。嘘は言いません。目が覚めるまで付いています。必ず、月くんの側にいます。
ですから安心して休んで下さい。目が覚めたら、また話をしましょう」
「………ん…わかった…」
微かに頷いて、急激に打ち寄せる眠りの波に浚われるまま、スウッと意識を手放す。
いつしか夕日に赤く染まった視界。男の姿が、ボンヤリ遠のいていった。
目を開けると既に世界は薄闇に包まれていた。
パシリパシリと、ゆっくり数回まばたきして、月はちいさく声をあげる。
「竜崎…?」
「はい」
すぐ傍らでいらえが返った。身じろぎして、顔の横に置かれていた手を、ちゃんと握られているのを確認して微笑んだ。
「よかった…」
「信用されてませんね私は」
「今までの行いが悪すぎたんだよ」
クスクス笑いながら起き上がろうとする月を助け、竜崎は華奢な肢体を抱え起こす。
「気分は」
「ん。悪くないよ」
眩暈も吐き気も治まっていた。竜崎のつくる煎湯は本当によく、月には効く。
「なにか飲みますか?」
「いや。それよりも、少しベッドから下りたい。いい加減に足が萎えそうだ」
「…大丈夫ですか」
「オマエが支えてくれるだろ」
カクリと首を傾げた男は、爪を噛みながら思案すると、ちょっとだけ待って下さいと月をベッドにおいてペタペタ何かを取りに行った。
すぐ戻ってきた手には薄手のガウンがある。それを月の痩せてしまった肩にかけながら、竜崎は提案する。
「外に出てみますか」
「いいのか?」
「はい。歩けないようでしたら、私が抱いていきますので。具合が悪くないのであれば、気分転換も必要でしょう」
「自分で歩ける」
言ってはみたものの床に両脚をおろし立ち上がった瞬間、よろけた月を竜崎は離してくれずに。
結局。男の腕に横抱きにかかえられて、月は久しぶりに外の空気に触れることが出来た。
夜の帳は、優しい静けさと咲く花の甘い香りを運んでくる。
昼間は灼熱の太陽に照らされた過酷な陽の国も、陽が落ちれば多少は熱気と湿気もおさまり、蒸すような風も心地よく吹きはじめる。
ペタリペタリと揺るぎない足取りで開かれたテラスから石造りの階段を下り、草木の茂る広大な宮殿の中庭に降り立った。
そのままどこかへと向かう竜崎に、月もなにも尋ねず、大人しく男の首に両腕をまわしている。
抱き上げられフワフワと、月の細い足首と、寝着の白いドレープが揺れている。
月明かりに照らされた静寂の世界。
ふたりは無言で、触れあった互いの体温だけを感じていた。
やがて、竜崎の足が止まった。
何処をどう歩いてきたのか月にはサッパリ分からない。そこは、木立に囲まれた中庭のすこし奥、
サラサラと水の流れるちいさな噴水とツタの絡まるベンチがひとつだけ置かれた、ささやかで密やかな憩いの場だった。
木々の隙間から柔らかなレモン色の月光がふりそそいでいる。
丁重に月をベンチに下ろすと、竜崎はやっと口を開いた。
「気分は?」
「平気だって」
心配性の男にクスリと笑い声を洩らす。
それから、月は竜崎の告白を誘うように、言った。
「綺麗なところだね」
「………私が、生まれ育った場所です」
そうなんだろうな。
凪いだ気持ちで、月は思った。
太陽の王は竜崎を、弟、と呼んだのだ。
竜崎は、陽の国の王族だったのだ。太陽の王の血族に連なる者だった。
そうと知ったとたん、すべての疑問が氷解していくみたいで、黙って続きのセリフを待った。
「私は、この宮殿で生まれこの宮殿で育てられました。ここは私の故郷であり、箱庭でもあるんです。
物心ついたころから、この広く狭い箱庭が私の世界のすべてでした。幼いときからこの宮殿内で帝王学を教えられ、歴史を、文化を、
政治を、経済を、ありとあらゆる知識を学び身につける事を求められ。
いずれはこの陽の国を率いていく器に足る人物となるように。それだけの為に私は生まれ、いきてきた。
それはそれで楽しかったのも事実です。知識はこころの飢えを満たしてくれる。けれど、束縛をきらい自由を求めるもう一つの心も、
どうしようもなく私の本質であり性分だった。
自分を殺してまでこの国に縛られたくはない。そう考える私は、太陽の王という重大な責務を果たすには相応しくない人間です。
ですから、この国を離れました」
………え?
月は瞳を瞠る。
太陽の王は、あのひとのはず。
「違います。本来、この国の王を務めるべき人間は、私です」
呼吸が止まった。
「私が、太陽の王なんです」
竜崎の兄である男は、先代の太陽の王の、妾にあたる夫人のこどもだった。
遅れて生まれた竜崎は、正妻である后の息子だった。
この場合、太陽の王の正統な跡継ぎは正妻のこどもであり、竜崎は次期国王としてきびしく育てられる。
やがて両夫人ともふたりが幼い時期に亡くなり、次いで先代の王も逝去した。まだ少年だった竜崎と、やや歳のはなれた青年になる
兄との間に、当然のごとく王位継承権の問題が派生した。
しかし正確には、争いではなく互いに責務の押しつけあいだったのだが。
年齢的にも、また度量も器も、竜崎の兄は太陽の王として申し分ない。竜崎もそう考えた。
兄が王を務めればいい。そうすれば、自分はこの国から自由になれる。
だが綿々と受け継がれてきた血族の掟は、それを容易くは許さない。まがりなりとも竜崎は正室の子である。さらに兄と同じように
その能力も、高く評価されている。
兄は、玉座を竜崎に渡したがっていた。
ひとまず幼い弟のかわりに不在の王代理を務めながら、つねに周囲への根回しを怠らなかった。
───私は、トップとなるべき器の人間ではないのだよ。いずれは弟に、太陽の王を引き継ぎたいとおもう。
どこがだ。竜崎は吐き捨てる。あのひとほど思慮遠謀に長けた人物はいないだろう。
側近たちにも、国民にも、諸国にも、信頼厚くあれほど王として相応しい人物はいない。
欲しいモノは自らの手で勝ち取ってみせる。たとえ果たすべき重責から逃げだした卑怯者と罵られようと、
この広い自由な世界で生きていくために。
ついに竜崎は立場を捨て、故郷を棄て、海賊として海に棲む決意をする。
引き止めることの出来なかった兄は。
けれどけして、竜崎を諦めようとはしなかった。