開け放たれた窓や扉をくぐりぬけ、熱気と湿気をまとった風がヒュウヒュウと駆けていく。
外の気温は相当に高いのだろう。しかし滑らかな白い石造りの建物内はヒンヤリと冷気をたもち、風通しのよい開放的な部屋は
照りつける日差しを遮るブラインドが下ろされていて、思いのほか涼しい空間となっている。
壁際や隅のあらゆるところに清涼な水をはった華やかな陶器瓶がおかれ、柔らかな山吹色の花がひかえめに飾られている。
水を置いて涼をとると共に花の香りと成分は気つけ薬代わりにもなる。
竜崎がつくる煎湯の原材料になる花だった。
太陽の王の住まう白亜の城。特別にあつらえられた眺めの良い、いちばん快適と思われる私室。
幾重にも天蓋から薄絹の垂らされたおおきなベッドうえに、月は横たわっていた。
長きにわたる航海で蓄積された疲労。祖国との激しい環境のちがい。
なにより激動のなか受けた精神的ショックと追い詰められた絶望感に、みずから意識する間もなく命を手放そうとした月は、
いま静かに療養のときを過ごしている。
疲弊しているとはいえもともとは、健康な肉体と柔軟性の高い精神をもつ月である。
それがここまで弱ってしまったのはひとえに、かたわらに寄りそう男の責任である。
まだ陽の高い真昼のころ。
自覚があるだけに忸怩たる後悔の念を抑えながら、竜崎は冷たい水で濡らした布で、月の青褪めた頬をぬぐった。
「…っん…」
ピクリと、ながい睫が震えて微かな声がもれる。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「竜、崎…」
ボンヤリ瞼をあけると瞬きして、月は、綺麗なヘイゼルの瞳で男の姿をみとめて、フウワリ微笑んだ。
その透明な表情に胸を突かれ、すぐに顔の横に置かれていた手をとり指を絡ませる。
言葉はなくてもこれをすると、月はいつも安心したみたいにちいさくため息をつく。
どれだけ不安にさせていたのか。どれだけ竜崎は月を傷つけたのか。
その度に思い知らされるきもちだった。
「いま…何時…?」
「昼をすこし過ぎた頃ですね」
「ずっと、付いていてくれたんだ」
「はい。月くんが良くなるまでは離れません」
男の言葉に月は笑った。
「じゃあ、このままずっと具合悪いままでいいよ」
「月くん」
「そしたらずっと一緒にいられるんだろう?」
意地悪を言ったつもりはなかったのに、竜崎は虹彩のない真っ黒な両眼を瞠った。
無表情のなかにも困ったような気配を感じて月はそっと目を閉じる。
冗談なんかじゃない。側にいるためだったら、二度と離れない為なら。なんだってするよ。
「…ずっと一緒ですよ」
囁かれた低い声にふたたび瞼をあけると、ニコリと笑った。
「ですから余計な心配はせずに、早く元気になってください」
「ん。じゃないと竜崎も、船に戻ることが出来ないしね」
太陽の王との謁見中に倒れた月は、そのままこの私室に運びこまれて既に十数日が過ぎている。
報せをきいて駆けつけて来てからは片時も離れず枕元につきそい、看病してくれている竜崎は、その間いちども船に戻っていない。
男の顔をみて、それからフと、改めてその様子を眺めて、月は不思議な違和感に小首をかしげる。
気がついた竜崎はポリポリと頭を掻いてみせた。
いまの竜崎は、王宮から支給されたらしい薄布でつくられた黒い装束を身に着けている。
襟ぐりや袖まわりのみ白の絹糸で縁取られた光沢のあるそれは、シンプルにとても動きやすそうだった。
おなじく腰にまいた白布のなかには竜崎のことである。抜かりなく短剣でも仕込まれているのだろう。
痩身だが鍛えられた男の身体にはピッタリと合っていて、おそらく王族の側近の者、とくに警護等を務める者がまとう正規の装いと
思われるのだが、
いつでも着崩した衣で長剣を腰にさし、上着を肩に羽織って黒鷲のごとく船のうえを行き来していた海賊の姿と比べると、どうしても
首をひねってしまう。
「なんか…竜崎じゃないみたいだな…」
「私も自分でヘンな気分です…ヘンですよね…似合いませんよね…」
「や!似合ってるよ!似合ってるし変じゃないんだけど…なんか…なんだろ…」
出会ったときから、月にとって竜崎は海賊だった。殺戮と略奪に血塗られた、ならず者の犯罪者。
しかし同時に自由と未知の世界とを象徴する、広大な海に棲むいきものたち。
そんな海賊の長である、竜崎という男。
それがいまは陽の国の王宮、いわば閉ざされた籠のなかで窮屈な装いに縛られて、しかも世辞でも何でもなく本当に意外と似合って
しまっているところが、妙な具合なのだ。
装束の話だけではない。本来、縁遠いはずのこの空間に、竜崎は慣れ親しんでいる訳もないだろうが、居心地の悪さも感じさせない。
なぜだろう。王室と海賊。正反対の存在。違和感のないことが、逆にひどい違和感。
「そういえば竜崎。オマエの船ってどうなっているんだ?ワタリさんやアイバーやウェディは、他の皆も、いまどうしてるんだ?」
「まあ船の事はともかくとして、早く月くんには元気になって頂かないと。もっと別の重要なことが困ります」
「ちょっ…竜崎!…ん…っ」
誤魔化された。
と思ったが被さってきた唇に大人しく瞳を閉じて、月はキスを堪能する。
促され薄く開けばスルリと舌が入りこんでくる。絡ませ濡れた音をたてながら吸いあげ、混じりあった互いのものを嚥下する。
角度をかえて何度も貪りあった。夢中になっている隙に、男の手が寝着の下に忍びこむのにも気づけなかった。
大きな掌で素肌を撫でられ、やんわりと胸の飾りを摘まれ捏ねられ愛撫されて。
ビクッと月は背をのけぞらせると、慌てて竜崎の動きを止めにかかる。
「だめっ…おいこらっ…んっ…んんんっ…」
「いい声ですね。久しぶりです」
「んっあっ………だ、駄目だって言ってるだろう!時と場所を考えろこの変態!!」
バシイ!
弱っているわりには結構勢いよく横面を引っぱたかれて、竜崎はシブシブ圧し掛かっていた月のうえから身を下ろした。
「月くんは酷いです…」
「オマエが馬鹿やるからだ!もう!」
「それだけ元気でしたら昼食も大丈夫そうですね。いますぐ用意させますから、一緒に食べましょう」
「………ありがとう」
穏やかな優しい声に、竜崎がどれだけ気遣ってくれているのかを思い知った気がした。
赤い顔をしたままの月の上体を、慎重なくらい丁寧に抱えおこし、ピロウやクッションで支えて楽な体勢をつくらせると
竜崎は食事をとりに部屋を出ていく。
その曲がった背中を見送りながら、胸に切ないしあわせを噛み締め、月は瞳を眇めた。
陽の国は大国である。よって、近隣遠方問わず諸国との貿易も盛んである。
その象徴ともいうべき食文化の豊かさは、到着して早々に床に伏し、まだまともな食事を摂ることも叶わない月には
伺い知れなかったが。
それでも弱った身体に負担にならないよう、消化の良い穀物類を中心に煮込んだスープや、栄養価の高い果物、ミルク、チーズ。
甘いフレバーティーや体温を下げるための冷たいミネラルウォーター。
やや呆れてしまうくらい贅沢な病人食を、竜崎と一緒にゆっくりと、お喋りしながら、笑いながら、時間をかけて楽しんで。
昼食後。
ふたたび席をはずした竜崎が部屋に戻ってきたとき。その表情をみて月は、これから何が起こるのかをすぐに察した。
「太陽の王が、貴方に会いたいそうです」
一瞬間をあけて。月は頷いた。
「わかった」
現実から逃げてばかりいても、なにも始まらない。逃げきることも不可能だ。
ならば、立ち向かうしかないではないか。
叶うことならこのまま竜崎と。この穏やかな優しいひとときを、ずっとずっとずっと、過ごしていたい。
けれどここは太陽の王の住まう白亜の城。そして自分達は、その太陽の王に背いた反逆者。
たとえ極刑に処されてももう文句は言えない。月はもう、ならず者に襲われ妾にされ捨てられた憐れな被害者ではなく、
主君となるべき男の目の前で、ほかの男を選んだ裏切者なのだから。
繕うていどに身なりを整え居ずまいを正し、断罪が下されるその時を待った。
竜崎も席を外さず、まるで月の影のように傍らにある。
やがて。
衣擦れと複数の足音とともに人影があらわれ、次いで癖毛の黒髪をもつ男の姿が現れた。
「やあ。だいぶん調子は良さそうだね」
飄々と、内心を覗わせない声音でそんな風に月に声をかけてから、太陽の王は付いてきた従者たちを片手でさがらせ、
ベッドのそばまで大股で歩み寄ってくる。
シーツのうえに上体を起こしただけではまともなお辞儀も取れず、月はとりあえず深々と頭を垂れた。
クラリ…と貧血のような眩暈がした。
「ああ。いいから。そんなに気をつかわないで、楽にしなさい」
ズルズルと自分で椅子を引っぱってきた太陽の王は、月の傍らに腰かけ気楽に言う。
その一連の仕草に、まだ一度しか会ったことも言葉を交わした事もないが、随分と立場に見合わない気さくな態度をとる人だと
月はすこし驚いた。
「どうだいライト。落ち着いたかな」
「………はい。お陰様で、ありがとうございます。王の慈悲深い対応と優しさには心より感謝を」
「あーやめやめ。それはもういいから。そういう話じゃないから」
アッサリと月の口上をさえぎり、フと薄く笑い、見透かすような視線を送る。
その視線の先にいるのは───竜崎だ。
月は瞳を見開いた。ふりかえって確認する訳にもいかなかったが、まちがいなく太陽の王は竜崎にむかって愉快そうに笑いかけて。
親しげに、話しかけた。
「どうだ。いいかげん覚悟は決まったか」
「………」
「まだか。どうしようもないヤツだな。まだライトにも何も話していないんだろう?」
「………」
「おまえが話せないなら、私から言ってやろうか」
「………余計なお世話ですよ」
───どういうことだ?
月は混乱する。
そもそも竜崎がここに来たのは、太陽の王からの報せを受けての事だった。竜崎が王宮内に滞在していることも、
王の許しがなければまず有り得ないだろう。
ならばこの二人になんらかの面識があったとしても、月も驚きはしない。
けれどこの雰囲気は。王と海賊。まるで隔たった世界の人間たち。だのに旧知のようなこれは、一体。
「怖くて話せない、か。話した結果、失うのが怖いのか。それとも怖いのは責任を負うことか?」
「うるさいです」
「そんな情けない男にライトはやれないな。私の后にした方が、せめてこれ以上は傷つけなくて良いだろう。
そうでなくても、もう十分すぎるほど傷ついているんだ。そうだな?ライト」
「…え?」
「ライト。貴方はなにも悪くない。なにひとつ悔いることもなければ詫びることもない。貴方はとても綺麗で純粋なひとだ。
貴方はただ被害者であり、そんな貴方を傷つけた加害者は私たちさ。
特にこの、嘘つきで、意気地がなく、優柔不断のワガママ勝手な男が悪い」
「………」
「どういう…意味…」
「無論。仕組んだ私も同罪だけれどね」
言って、長い前髪に隠された慧眼が、月を見つめた。
「あの謁見の日。貴方は土下座までしてみせたが、本当は地べたに額をすりつけ赦しを乞うのは私たちの方なんだライト。
私たちは貴方を騙していた。真実を知って、ライトのこころが離れたとしてもそれは仕方のないことだと思う」
「私が話します!」
たまらず、割りこむみたいに竜崎が声をあげる。
得たり、と太陽の王は笑った。
「竜、崎」
「そうだな。私からいま言えるのはここまでだな。あとは二人でよく話すといいさ。
いつまでも夢の時間は続かないよ。腹を据えて、現実と向き合うことだ」
まるで先程までの月の考えを読んでいたかのような男のセリフに、月は唖然と言葉を失っている。
椅子から腰をあげて悪戯っぽく口角を歪めた男は、さらにヒソヒソと囁いた。
「ライトは剣の腕がたつそうだね。喧嘩もたいへん強いと聞いているが、頼むから怒りは全部そいつにぶつけてくれ。
切り殺すのも殴り殺すのもご自由に」
「さっさと出ていきなさい」
「それから私はライトを気に入っているからね。これは嘘偽りない本当の事だ。だからそいつに嫌気がさしたら、私の后になるといい」
「いい加減にしないと」
「おっと。これまでだな」
ユラリと立ち上がった竜崎に飄々と笑いかけて、太陽の王は呆気なくスタスタ大股で部屋を出ていく。
しかし去り際にひとこと。
「ライトはあのとき。
『太陽の王』に感謝と忠誠は捧げても、愛情は捧げられないと言ったよ。
そこまで想われているんだ。これ以上はけして裏切るんじゃないぞ───弟よ」
つぶやきを残して。
月は、ヒュッと息をのんだ。
竜崎の気配が、大きく歪むのがわかった。