ユラユラ揺れるオレンジ色の松明。煌くダイヤモンドダスト。積もった雪に吸いこまれ柔らかく聞こえる人々の歓声。
頭を撫でる温かい大きな手。いつでも優しくそして厳しかった、尊敬する父親。
ライト。この美しい夜の国を、私たちが守るんだぞ。
はい父さん。
分かってるよ。その為に僕はいる。夜の国を、父さんや母さんや粧裕や、国民の皆がいつでも笑って過ごせる、そんな
理想の世界にするために。
でも父さん。
僕は、その幸せな世界には戻れない。皆が微笑んでいる、父さんたちのいる夜の国に。もう二度と。
かえりたい。本当は帰りたいんだ。
独りきりになった。そうしたらそっと、誰かが後ろから抱きしめてくれた。その両腕に包まれて安心した。
寂しいのなら、どうせ泣くなら私の腕の中で泣きなさい。
ソロリと寄りかかったら磐石の力強さで支えてくれて、温もりに安堵した。安らいで、楽しくて、怒ったり喧嘩をしたり、
仲直りして、キスして、笑いあって、
こころから愛しく想い。
だから身も心もぜんぶ預けた。
私が貴方の理由になります。
握った手を離さないで。ずっと一緒に自由な世界を。
絡めた指先に力を込めようとする。とたん、不意に振りほどかれた。思いがけない速さで。
驚く間もなく男は去っていく。離れていく男の背に、必死で声をかける。呼びかける。絶叫する。
待って!まって!どうして置いていくんだ!
行かないでくれ!
竜崎!
月くん。愛してます。
嘘つき。
愛してなんかいないだろう。愛していたなら、どうして置いて行ったんだ。連れて行って欲しかった。竜崎の棲む自由な世界へ。
たとえ持つものすべてを投げうっても、どんな試練が待ち構えていても、
ずっと一緒に居たかったのに。
愛してなんかいないよ。もうオマエなんかどうでもいい。これで以前どおりに戻ったんだ。本来あるべき、もとの自分へ。
生まれてきたのは祖国のため。
そのためだけに生きてきた。今も生きている。
コトンコトンコトン…となにかちいさな音が先程から響いている。はじめソレが何か分からなくて、やがて自分の心臓の音だと
気がついた。
コトン…コトン…コト…
ちいさく、弱々しく、もうすぐ途切れそうな。
フと目を凝らすと、遠くに眩い光が見える。それから自分が真っ暗闇のなかにいた事に気づく。
考えることもなく本能の惹かれるままに、一歩、光に向けて歩き出した。酷く重く辛く痛かった身体が、一歩進むごとにフワリと
軽くなっていく。
それが嬉しかった。
コトン…コト…ト………
音が次第にしだいに消えていき。月は無音の世界を、まぶしい光のかなたへ───
月くん!
懐かしい声。
羽を広げ飛び立とうとした月を引き止めたのは、あの男の声。
今度こそ真の自由の世界へ。月を縛るものはもう何も無い。祖国への想いも、責任も重圧も、恋情も狂おしい哀しみも虚しさも、
すべてから解き放たれ旅立とうとしていた月を拘束するのは、
月くん。目を開けて。返事をしてください。
名を呼ばれて震える。こころが、からだが震える。
月の向かっていた眩い世界から急に轟々と風が吹きつけ、暗闇と光が交錯し、意識が急速に水面へと浮上しはじめた。
月くん。
竜崎。どんなに嘘をついたって、どうしようもないと諦めて、平気なんだと自分を欺いて、大丈夫僕なら出来ると思っても
竜崎。本当は、真実は、ずっとオマエに会いたくて、会いたくて会いたくてあいたくて
月くん。
哀しい。辛い。苦しい。痛い。愛しい。いとしい。叫びたい。
月くん。
お願いだ。もう二度と。握った手を離さないで。ずっとずっとずっと一緒に。
愛してます。
竜崎。
僕も愛してる。
「月くん」
「りゅ…ざ…」
瞼を開いたら目の前に、懐かしい隈つきの虹彩のないギョロ目があって、月はホンノリと唇を綻ばした。
実際には指一本、顔の筋ひとつ動かすことも出来ない弱りきった状態だったので、表情は変わっていない筈だったけれど、
月の気持ちは男にはキチンと伝わったようだった。
両手で握り締められていた掌にギュッと力が込められるのを感じて。
トロリ…とふたたび眠りに落ちようとした月の頚の下に腕がまわされ、慎重に頭を抱え起こされた。
唇に唇が重なる。
何度もなんども味わった、口内をさぐる竜崎のソレ。
実際の日にちで言えばそれほど離れていた訳ではないけれど。あまりにも懐かしい気がする感触にもういちど身体が震える
のを覚えながら、月は促されるまま口に含んだ液体を嚥下した。
…ああ…これは前にも飲んだ…竜崎が作ってくれた煎湯だ…
数回に分けて煎湯を飲み干し、たぶん薬のようなモノも飲まされて、シーツにもどされ、サラリとしたリネンに包まれる。
朦朧とした意識を一生懸命手繰りよせて、竜崎の荒れた指先がまた手を握ってくれるのを確認して、もう片方の指先がいつも
みたいに丁寧に髪を梳いてくれて、
優しいキスが降ってきて。
そこまでが限界で、月の意識はブラックアウトした。
また夢をみていた。哀しい夢だった気がする。
目覚めたら竜崎が月の顔を覗きこんでいる。心配そうに涙を拭ってくれたのでこれもまた夢なのかと思うとさらに涙が
止まらない。
「月くん…私の声が聞こえますか…?」
いつも傲岸不遜の飄々とした態度の男が、オドオドと心細げに問いかけてくるのに、月はほんの少しだけ怪しんだ。
カチリ、とチャンネルが合うように。
飽和状態だった思考が戻ってきた。未だクリアではなかったが。
「竜…崎…?」
「はい」
「戻ってきて…くれた…んだ…」
「はい。すみませんでした」
何がどうすまなかったのか。どうして竜崎がここに居るのか。そういえば此処はいったい何処なのか。いまは一体いつなのか。
あれから太陽の王はどうしたのか。
とりとめなく疑問が右から左に流れて、月はどうでもいいと思った。
竜崎が今ここに居る。それだけでもう、何もかもがどうでもいい。
「具合はどうですか?」
前髪を梳きながら、間近で囁く竜崎に月はフ、と微笑した。今度はちゃんと笑えた気がする。
「おかげ様でね…最悪だよ」
「…すみません…」
出っぱった男の両眼がキョロキョロうろたえ彷徨うみたいに動いたので、月はおかしがった。
掠れた声をあげて笑ったら、カチリとまた、チャンネルが合った。
「竜崎…ここはどこなんだ…?」
「太陽の王の宮殿内ですよ。月くんの為に設えた部屋のなかです」
「そんな…」
カチリカチリと月のなかの時計が時を刻みはじめる。
まるで悪夢のような、しかし記憶はシッカリと残っていた。
竜崎と別れたあと。月は太陽の王と謁見し、その途中で意識を失ったのだ。そこからは何も覚えていない。
倒れた月が部屋に寝かされ治療を受けているのは当然として、どうして竜崎がここにいるのだろう。
部屋のなかはシンと静まり返っていた。月と竜崎のほかに、誰かが控えている様子もない。
海賊の長であり、月たちの旅船を襲った犯人扱いになっている筈の、ならず者のお尋ね者の竜崎がどうして。
「呼ばれたからですよ」
言葉にしなくても男は月の混乱を見抜いたみたいだった。簡潔に、答えをくれた。
「太陽の王から、月くんが危篤だとの報せを受けました。一刻の猶予もないと。
慌てて駆けつけてみれば貴方はまさに旅立つ瀬戸際で、心臓が凍る思いをしました。あんなに怖ろしい思いをしたのは
生まれて初めてだった。
何とか月くんの容態が峠を越えたとき、オマエの仕出かした責任は自分で取れと言われまして。
あの人などに言われなくても、最初からそのつもりでした。責任は、取るつもりだった。
でも、まさか、こんな事になるなんて…貴方をここまで追い詰める事になるなんて…考えていなかったんです…
私が甘かった。馬鹿でした。チャンスを伺おうと暢気に構えていたら、そのあいだに私は一番、大切なものを失う直前だった。
本当に、ほんとうに、月くんには申し訳なかったと思っています」
掻き口説くように熱く畳みかけられても、月には意味がわからない。
ただ、わかったこともある。竜崎は太陽の王に許可されてこの場に居ることと、それから、心底月に対し謝罪を述べていること。
死の淵にまでに追い詰められた月に頭を下げ、謝り、赦しを乞い、贖罪を求めていること。
それは責任を感じているからだけではない。
竜崎の心は、あの時けして月から離れた訳ではなかったこと。
竜崎は、月を愛している。
「なのに私は悔恨と懺悔をする一方で、こころの片隅では密かに喜んでいる。
月くんは、それほどまでに私を愛してくれていたのだという事実に」
スルリ…と頬を撫でられ、目を伏せた。すぐに温かい唇に塞がれて、瞼にも、鼻梁にも、耳朶にも、首筋にも。
チュ…チュ…とリップノイズを立て施されるそれに、月はしつこく眦が濡れてくるのを感じてすこし悔しくおもった。
いまさら隠したって仕方ないことだけれど。
「………謝るだけか」
緩やかな愛撫の手を止めた男が、月をみた。月も竜崎をジッと凝視した。
澄んだヘイゼルの瞳と深淵の漆黒の瞳が、見つめあった。
「愛してます」
刻み込むように告げた男に、月はコクリと頷いた。
「二度と離れません。離しません」
唇を噛み締め、竜崎の誓いを噛み締め、紅潮した頬も、睨みつける双眸も、潤みながらもキラキラと煌き、強い意志を宿し。
なんて綺麗なひと。
「僕も愛してる竜崎」
会いたかった。
互いに両腕をひろげ抱きしめた。力なく縋りつく華奢な肢体を、壊さないようにと思いつつもあらん限りの力で包み込んだ。
腕のなかで泣き声をあげながら「二度と離すな」と繰り返す愛しいひとの、薄い背中を撫で、キスを贈り、絹糸の髪に顔を埋め、
何度もなんども「愛しています」と囁きつづけた。
もういちど巡り会えたなら、二度と握った手を離してはいけない。
そして今度こそずっと一緒に、自由な世界を。