太陽の王の住まう宮殿は、活気あふれる街の中心部からほんの少し離れ、海と城壁と広大な敷地内の
豊かな緑に守られた白亜の城だった。
物々しく連なる豪奢な馬車で運ばれ、巨大な城門をくぐりエントランスホールへと続くましろい階段の前で
御輿に乗りうつる。
一瞬、自分で歩けると言おうとして月は口を噤んだ。
夜の国ではたとえ王室の者でも大概、自分のことは自分で行っていたし、宮殿の中でまで人の手を借りて
移動することに気が引けない訳でもなかったが。
いまの自分の体調を考えると、意地をはって太陽の王に会う前に倒れでもしたら元も子もない。
御輿に移ってすぐに、付いて来ていたミサたちは別室に連れて行かれ、月ひとりで太陽の王と謁見することになった。
うやうやしく案内する従者に先導され、月はしずしずと長いながい廊下を建物の奥に向かって進んでいく。
思っていたよりもずっと宮殿内は静謐な空間だった。
大理石だろうか、滑らかな石造りの壁や柱や高い天井からは、ヒンヤリとした心地よい冷気がただよい、
外界の熟んだ熱気を遮断している。
ときおり頬に吹き抜ける涼風を感じた。
やがてやっと。延々とつづいた回廊のつきあたり、閉ざされた扉の前で月は御輿から降ろされた。
この扉の向こう側に、太陽の王がいる。
月の、夜の国の命運を握る男が、いる。
背筋をのばし顎をひいた。毅然と面をあげドレスの裾をなおすと、大きく息をすった。
重厚で荘厳な扉が、音もなく開かれた。

高い天井や壁のあちこちに明かり取りのステンドグラスが嵌めこまれ、賓客を迎える謁見の間は、厳かな光に
包まれ静まり返っている。
玉座に座っているのはたったひとりの男。そばには護衛もふくめ他に誰も、いない。
背後で扉が閉まるのを確認して、月は一歩、広間のなかへと踏みだした。
男の座る上座の手前、階段の下まで、ヒタリと視線を据えたまま瞬きもせず歩きつづけた。
そして一歩手前で足を止める。いちど、見つめてくる視線と視線をあわせたあと、ゆっくりと瞼を伏せ、
優雅に流れるように腰を折り、作法どおりの御辞儀をする。
月の身につけている白いドレスのドレープとヘイゼルの髪がフワリと揺れた。
「はじめてお目にかかります太陽の王。夜の国から参りました、月と申します」
「遠路遥々と長旅にわたりお越しいただき、大変なご苦労をおかけした。
───よく来たねライト。待っていたよ。噂どおりの聡明で美しい方だ。貴方に会えてとても嬉しくおもう」
穏やかな声は耳良く響き、労りをもったそれに、月はそっと瞳をあげる。
父親である夜神の言っていたとおり、太陽の王は未だ年若い男だった。
もちろん月よりはずっと年齢が上で、若輩者とまではいかないものの、陽の国ほどの大国を背負う責任ある立場の
人間としては異例の若さだろう。
しかし。
長めの前髪に隠された、深く吸いこまれそうな闇とすべての真実を見透かす光を湛えた、彼の双眸。
それだけをみても只者でないことは容易に窺い知れる。
フと。月は感じた。
………似ている。
太陽の王と月のあいだには物理的に若干の距離があったし、窓からさしこむ光は逆光で、月の居る場所から男の様子の
仔細はわからなかったのだが。
黒々とした髪は竜崎よりすこし癖毛だったけれど。背中も、あんなに曲がっていないけれど。
隈だってないし指先を噛む仕草もしないし、なによりもう竜崎は。
もう忘れなければならないのに。
飄々とした雰囲気が。愛しげにこちらを見つめる両眼が。面影が。そういえば声もすこし似ている気がする。穏やかに感情を
隠した、それでいて深くよくとおる声で、
───月くん。
ズキッ!と痛みが走って思わず胸を押さえ、喘いだ。
はっ…と短く息を吐きだし堪えた。痛い。でも平気だ。大丈夫なんだ。
あの男のことは、思い出してはいけない。もう忘れなければ。忘れるんだ。
「体調が良くないと聞いているけれど、船旅でずいぶん無理をしたのだろうね。
そんなに華奢な身体ではこの国の暑さも辛いだろう。部屋を用意してあるから、まずはゆっくりと休みなさい。
海賊に襲われたとも聞いているよ。怪我などは大丈夫なのかな?」
きた。
月は唇を噛んだ。
海賊に襲われたこと。長である竜崎の愛人になっていたこと。
情報は当然、すべて太陽の王の耳に入っているだろう。隠しとおせるとは月も考えていないし、隠す気も端からない。
事実は事実。どう思われようと、為すべき事はひとつ。
目を瞑った。
丁重に冷たい床に両掌をついた。それから膝も、頭も。深々と。
「…どういう意味かな?」
太陽の王の声は変わらず、穏やかだった。
「僕は、貴方の后には相応しくありません」
月はその場で土下座をしたまま。
冷静に淡々と、言葉をつづける。
「もうご存知の事と思います。道中、ならず者たちに襲われ辱めを受けました。
一時は自害も考えましたが、今は旅船の全員が無事、生き延びる為には仕方なかったと思っています。
でも、陽の国を治める立派な御方であられる貴方の、后としての資格を僕が失ったのは事実です。本当ならこんな風に
お会い出来る立場でないことも十分わかっています。
だから、貴方には心から感謝いたします」
オマエなどはもう用済みだと。港に着いて早々追い返されたとしても、月は文句の言えない立場であるのに。
目の前にいる男は優しい労りのセリフを口にして、休息の時間まで与えると言ってくれた。
どれほどずうずうしくても厭らしくても、その懐深さと温情に縋るしかないのだ。
プライドなど、とっくに捨てた。
「太陽の王。僕にその資格が無いのも、貴方にとってご迷惑なのも承知のうえです。
どうか願わくば僕を貴方の后にしてください。飾り物でも良いんです。大勢の中のひとりでも、末席でも。貴方が不快であれば、
けして表には姿を現さないようにもします。
だからどうか」
「あまり自分を蔑まない方がいい。とくに今回の件は、ライトに非がある訳ではないのだからね」
宥めるみたいに遮られて、俯けた貌が歪むのがわかった。
慰められて。同情されて。可哀想にと憐れまれて。
泣くものかと思った。こんなことで泣いてはいけない。
ずっと以前にもそう思ったなと、頭の片隅で考えた。
「ライトは本当に私の后になりたいのかい?」
ずっと以前にも誰かにそう訊かれた。
「そのために生きてきました」
うまれてきたのは夜の国のため。
愛され大切に育てられ、傷ひとつ付かないよう。やがて見知らぬ誰かのモノとなり、引き換えに国を国民を守ってもらうために。
自分はそのためだけに生きているのだから。
それが月の存在理由なのだから。
フウ…と軽くため息をつく音が聞こえ、必死でたたみかける。
「僕に出来ることは、貴方に最大級の感謝と忠誠を捧げる事だけです。僕のような人間からそんなモノを贈られても
無用だとは思います。でももし貴方の后にして頂けるなら、僕は生涯、太陽の王の忠実な臣下に」
「私は臣下が欲しい訳じゃないし、ライトはとても魅力的だから后に迎えるのは吝かではないけれどね。
でもそれでいいのかな?」
意地悪という風でもなく、からかう様に男は笑い、言った。
「『最大級の感謝と忠誠を捧げる』…ね。でも愛情は捧げられないのだろう?」
「!」
「私はライトの愛が欲しいんだが、どうやらそれは無理のようだね。話していてよく判る。それに、素直な目だ。
ライト。愛している男がいるんだろう?」
月くん。
愛してます。
嘘つき。
「…いません」
「嘘はいけないな。そんな瞳をして嘘はつくものではないよ。一生そうやって自分を欺きながら生きていくのかい?
それはとても辛いことだ。ライト」
嘘つき。
愛していると言った。
握った手を離さないで。ずっと一緒に自由な世界を。
そういった竜崎を、月は愛している。今も愛している。でももういない。竜崎はいない。月の傍にはいない。
永遠に会えない。
嘘つき。
愛している。
愛している。愛している。あいしている。
「ライト?」
「痛…」
ズキズキと痛い。胸が痛い。痛い。いたい。苦しい。くるしい。呼吸がうまく出来ない。
ヒュウッと細く咽喉が鳴って、月は床に蹲ったまま、全身が不随意に痙攣するのを感じた。冷汗がこめかみを流れる。
目尻からも、汗ではない雫が。
忘れなければいけないのに。平気でいなければ、生きてはいけないのに。
月はこれからも生きていかなければならないのに。
平気なのだと、大丈夫なのだと嘘をついて、もう忘れてしまったと嘘をついて生きていく事と、
オマエのことをずっと想いながら生きていく事と。
どちらがより辛いんだろう。
竜崎。会いたい。あいたい。オマエを想うだけで僕はこんなに苦しいんだ。痛いんだ。でももう会えないんだ。どうしようも
ないんだ。どうしようも。なのにどうして。こんなにも。
竜崎。
愛してる。
意識が次第にとおく、太陽の王がなにかを叫んでいたがもう耳に届かなかった。
痩せ細った肢体がユラリと傾いで、崩れ落ちる直前。
───月くん。
恋しくて恋しくて哀しくてたまらない男の声に呼ばれた気がして、
月は幸せそうにかすかに微笑み。
暗闇の淵に沈んだ。