夢をみる。
旅船で夜の国を出国してから。月は、よく祖国や家族の夢をみていた。
うつくしい景色。やさしいひとたちの笑顔。二度とかえれない大切な場所。
夢から醒めて瞼をひらくと、いつも、隣で眠っていたはずの男がすこしだけ困った顔をして顔を覗きこんでいて、
それから荒れた指先でソッと目許をぬぐってくれた。
それで、月はボンヤリと長い睫を瞬きながら、自分か泣いていたことを悟るのだった。
夢のなかでしか泣けないのですか?
竜崎に言われたときがあった。月が答えないでいると、
どうせなら私の胸のなかで、どうぞ。
いつでも空いてますよここ。月くん専用ですから。そう言いながらバタバタ腕を開いたり閉じたり、子供っぽいジェスチャー
を惚けた貌でしてみせた男に、月はおかしくて声をあげて笑った。
───フッと水底から海面に浮上するような感覚とともに、目をひらいた。
いつもの竜崎の私室ではない。旅船の月の部屋のなかだった。
笑っていたはずの男の顔は、消えていた。
目覚めた時にはかならず竜崎がいるはずなんだ。
また、瞳を閉じた。
今度はいつかの夕焼けがひろがっている。ふたりで見張り台のうえから見た大海原。彼方に沈む太陽。鮮やかなグラデーション。
綺麗でしょう。ずっと月くんに見せたかったんです。
うしろから腕をまわされ抱きすくめられて、竜崎に囁かれる。この自由な世界を貴方に。
月は瞳をとじて囁きかえした。万感の想いをこめて。
ありがとう竜崎。
でも、キスでこたえてくれるはずの男の温もりが、背中から消えている。かわりに感じるのは冷たいシーツの感触。
ひとりで横たわる孤独なベッド。
嫌、だ。
必死で思い出そうとした。素肌で覚えた男の体温。まさぐる指のうごき。耳朶を噛まれた時の甘い痺れ。
月を求め、月を暴く男の掌。
昂ぶる熱いからだを追いつめるのも癒してくれるのもあの男だけだ。互いに熱をわかちあったあとは、眠りに落ちるまでの
短い夜のひととき、他愛ないお喋りを繰りかえす。
竜崎はリュークによく似てるんだ。
月くんが夜の国で飼っていたペットの黒鷲ですよね。
すごく僕に懐いてたんだよ。出国する時にも付いて来ようとしたから、可哀想だけど紐で繋いできたんだ。
私だったら、紐を嘴で喰いちぎって飛んで来ますね。
この広い世界を何処までも貴方と一緒にいくために。
嘘つき。
貴方の知らないたくさんの事を私が教えてあげます。
嘘つき。
握った手を離さないで。ずっと一緒に自由な世界を。
嘘つき。
愛してます。
嘘つき。
嘘つき。嘘つき。嘘つき。
嘘だって、知ってるよ。
目を開けなければいい。そうすれば嫌なものは見ないですむ。夢から醒めなければいい。醒めないあいだは、目覚めた
ときに必ず竜崎が隣にいると、信じられるから。
ひとは直視できない現実とぶつかったとき。つらく苦しい感情に耐えきれず押し潰されそうになったとき。
眠りという最期の自己防衛手段をつかって逃避するのだと、月はずいぶん昔、なにかの本で読んだのを憶えている。
そしていま。
月が眠りのなかでみる夢は、どれもやさしくてあたたかくてしあわせで、かなしかった。

ユラユラ。揺れている。睫や目尻が濡れて重く、腫れぼったい。
ああ僕は目覚めたくなんかないんだ。お願いだ起こさないでくれ。放っておいて。ひとりにして。なにも見たくないし
知りたくない。
またゆっくり意識が沈んでいく。
でも今度はしつこく誰かに名を呼ばれていて、何度も何度もなんどもしつこく諦めないそれに、ドロドロ浸っていた泥沼から
無理矢理、月は引きずり上げられる。
胸をつく不快感に眉を顰めた。
気持ち悪くて、いつの間にか口内に含まされ飲まされていたらしい水と薬を吐きだした。
とおくミサや従者のものらしき声が聞こえたけれど、すぐ何もわからなくなった。 
疲れた、と月は思った。頼むから放っておいてくれないだろうか。
ねむたいんだ。ひどく。
また、スルリと夢魔が擦りよってくる。甘く優しくしあわせで残酷な夢が、月を包む。
このままずっとずっとずっと眠っていたい。永遠に眠っていたい。
夢のなかではいつだって竜崎がそばにいてくれる。

月の旅船が竜崎の海賊船とわかれて、月が竜崎においていかれて丸一日後。
陽の国からの迎船が到着した。
「月さま」
旅船の船長が部屋までやってきて、甲板で倒れてから未だベッドのうえで、上体を起こしただけの状態の月に、
気遣うように声をかけた。
月はコクリと蒼白い顔でうなづいた。
旅船には陽の国からの大使が訪れている。月はこれから、船の責任者であると同時に夜の国王室の者として、
彼らと対面しなくてはならない。
何艘もの迎船にかこまれ、俄かにちいさな船内は活気づいている。
さわがしい。煩わしく月はおもった。
とりまく世界がどこか遠く現実味が薄かった。
暑い。そう、陽の国にほどちかいこの海域はとても暑くて、疲弊した肉体はとても辛くて、バテた指一本動かすのも億劫で。
なのに身体中がつめたく冷えきっている。
皮膚の内側ではつねに、どこかで痛みを訴えていた。キリキリと鋭利な刃物で突き刺され抉られる痛覚は、いったい
どこで感じているのだろう。
逃げることは許されなかった。
月は。竜崎に去られたショックから旅船の甲板で倒れたあと。いちども目覚める事なくひたすら昏々と眠りつづけ、ミサや
従者たちを酷く心配させたが、
陽の国の迎えがきたとの報せにアッサリと覚醒した。
まるで無意識の夢のなかでも、為さねばならない自分の務めを、忘れられなかったかの如く。
異国の男たちが物々しげに部屋に入ってくる。月はダルい背筋をスッキリと伸ばしてみせた。
慇懃に長旅をねぎらう外交の決まり口上を述べ、道中なにはともあれ、ひとまず陽の国での会見を期待しているという
鷹揚な太陽の王からのメッセージを伝える使者たちと会談しながら、
月は笑顔を浮かべることすら出来ていた。
なんだ意外と平気なものなんだな。
心のうちで不思議につぶやく。
あたりまえだ。こんなことでどうにかなる訳がない。僕は大丈夫。僕なら出来る。
傍らに控えるミサの心配そうな視線は黙殺した。
大使達が去ったあと、なにか召し上がって下さいと部屋まで運ばれた食事も、まったく手をつけないまま返してしまった。
もう暑さも冷たさも感じない。
フワフワと薄皮いちまい隔たった世界。色褪せた視界。とおくに聞こえる声。なにも考えられない。
なにも感じない。
壊れてたってべつにいいんだ。月はベッドに横たわり茫としながら思った。月はもともと人形で、人形は見た目が綺麗であれば
それでいいのだから。
もしこれから会うことになる太陽の王が、ほんのすこしでも月を気に入ってくれたら。壊れていても穢れていても、ほんの少しの
時間だけでも、側に飾っておいてくれたなら。
それでいい。務めは果たせる。それが無理でも月の境遇を哀れんでくれて、憐情をほどこし夜の国に恩恵を与えてくれれば。
それでいい。
それで生きてここまできた意味がある。
それ以外にいま、月に理由を与えてくれる人間はいない。月に生きる理由と、存在意義と、自由を与えてくれるはずの男は
もういない。二度と。
なにもかも奪って逃げてしまった。いらなくなった人形の月は、捨てられた。
そうだアイツは海賊だったじゃないかと月は声もなくちいさく笑った。
それなのに信用して信頼して、僕がバカだったんだ。
僕が愚かだったんだ。
でもどうしようもないんだ。
いまさらこのこころはどうしようもないんだ。
もう眠れない。夢もみない。逃げることは叶わない。
差し込む白い日ざしに何度も、溶けてしまえたらと願った。
旅船の私室のちいさな窓からは、相変わらず蒼い海原と眩い光が切り取られた一枚の絵画のように。
けれどモノクロの世界に、月はたったひとりきり。

二日後。航海の終着地である陽の国に、旅船はやっと辿りついた。
港では夜の国からの来客を歓迎する盛大なセレモニーがおこなわれていたが、体調不良を理由に月は出席をことわり、
すぐに太陽の王への謁見を希望した。
旅船から従者に付き添われおりてくる、自国の王の后となるひとの姿を遠く目にして、陽の国民たちはひそかにさざめいた。
なんて綺麗なひとなんだろう。
なんて美しいひとなんだろう。
あんなひとは見たことがない。
あんなに白い肌をして、細い身体で、儚げな様子で、なのに毅然と貌をあげて、凛とした澄んだ眼差し。
まるで一本の大輪の花みたいなひとだね。
…でも。
ヒソヒソと、密やかに、不安げに、憂慮してささやく、陽の国の人々の浅黒い顔、顔、顔。

………大地に根ざさない一輪の綺麗な花は、この熱く過酷な国では、すぐに枯れてしまうだろうね。