別離のときが近づいていた。
「あと数日で陽の国の領海にはいります」
私室の開け放った窓からさしこむ暑い日ざしと湿った海風をたのしんでいたとき。
そう静かに背後から声をかけてきた竜崎を、月は穏やかな表情でふりかえった。
「…そう」
「海域に到達したら、陽の国にむけて信号をおくります。返信がとどき次第、私たちはその場からすぐに離れます。
月くんの旅船はそのまま進ませますので、陽の国からの迎船と二日と空けず合流できるでしょう。
もう襲撃の危険はないと思います」
「この船は陽の国には行かないんだね」
「行ったら私たちが捕まってしまいますよ。海賊ですから」
ちいさく笑った竜崎に、月も微笑みかえした。
近づいてきて細腰に腕をまわし抱き締めてくる男の肩に、コトンと頭を凭れさせる。
月の柔らかな髪に竜崎は顔をうずめた。
「陽の国の迎船がくるまえに尻尾を巻いて退散します」
「僕たちを、命をかけて守ってくれた恩人なのに」
「そのかわり一番たいせつなものを奪ってしまいましたからね」
それは月のことだ。夜の国の旅船を無事、陽の国に送り届けるかわりに、月が竜崎のものになる事は出会った当初
からのふたりの約束。
その約束を果たすときが迫っていた。
「僕はずっと、竜崎や竜崎の船は陽の国と契約しているんだとおもっていたよ」
いくら約束を交わしたとはいえ本来、ならず者である筈の竜崎たちは、あまりにも律儀に月たちの保身に努めてくれた。
だからいちどは否定されたものの、月はその推測を捨てていなかった。
海賊にはおおまかに分けて二種類がある。その名のとおり海のうえの無法者集団として、ひたすらに殺戮と略奪をくり
かえす者たち。それから特定の国々と契約し従属して、規律を守り、海軍の役目をも果たす者たち。
竜崎のもつ絶大な権力。統制力。なにより筋道のとおった生き方考え方。
とてもただの海賊とはおもえなかった。
さらに船は一途なまでに陽の国に向かっていて。だから。
「もし私が陽の国に従属する身ならば、月くんに手出しすることは絶対にありえませんよ」
「それもそうか」
苦笑まじりの竜崎のセリフに頷く。月は夜の国王室の子として、陽の国王である太陽の王の后になるべく陽の国に
むかっていたのだ。そんな立場の人間を横取りする形で手に入れてしまった竜崎は、二度と彼の国にかかわることは
出来ないだろう。
「僕がオマエの側にいるかぎり、竜崎にとっては陽の国も夜の国も鬼門になるね」
「そのとおりです」
裏返せばそれの意味するところは月も二度と、陽の国にもそれから夜の国にも。戻れないということ。
もう二度と。
あとすこし。陽の国海域にたどりついて、旅船と別れた瞬間に、
月と祖国をつなぐ細い一本の絆は断ち切られる。
「…本当にいいのですか?」
竜崎の低いつぶやきに、月は視線を巡らせた。
「なにが?」
「私と一緒にこの船に残ることに後悔はありませんか?」
「いまさら何を言うんだよ。それにたとえ僕が後悔したってしなくたって、竜崎は僕を離さないんだろ?」
良いも悪いもない。いちばん最初に海賊に襲撃された段階で、竜崎に助けられ捕らわれた時に月の命運は決まっていた
ようなものだ。
「はいそうですね」
間髪いれずに返事をして抱く力を強くした男は、以前、こうも言っていた。
私は今後も貴方を手放す気は微塵もありません。
月くんは私のモノですからほかの誰にも渡しません。貴方が泣いて解放を求めても逃がすつもりもありません。
あたりまえのように告げられる傲慢なセリフに、月はひどく安心したのだ。
理由を与えるという言葉にも。
望むと望まざるとにかかわらず、月はもう陽の国に行くことは不可能で。それは約束の有無は関係なく、万一、竜崎が
月を解放したとしても、厳然と変わりのない事実だった。
月は祖国の国益のために他国に売られた綺麗なきれいなお人形。綺麗であることだけが買主の求める存在価値であった
はずなのに、船便で運ばれる途中に他人の手で穢された人形の値札には、0の数字しか並ばない。
こんな薄汚い人形はもう要らないと返品されてしまえば、国益どころか夜の国には多大な迷惑をかけるだろう。
自分の存在意義を失った月に、竜崎が告げたことば。
私が貴方の理由になります。
私が貴方に自由を与えます。
月くんは私と一緒に、本当の自由と、世界を。見てまわりましょう。
「だったら今更そんな事きくな。僕を逃がすな竜崎。僕もオマエと一緒にいたい」
本音をいえば月の胸中にはいまも、祖国を裏切るのだという忸怩たる後悔の念がハッキリある。
けれど自分を抱き締める男の腕はあたたかくて、心地良いそこから逃れたいとはどうしても思えない。
天秤の傾きは水平で、どちらが大切かなんてとても選べない。
だから、握った手を離すな。
ソッと、竜崎の長細く荒れた指先が月の頬を擽った。くすぐったいと思いながら顎を掬われ顔を上げると、男の虹彩の
ない真摯な瞳にぶつかった。
寄せられる唇を瞼を閉じて受けいれる。すっかり馴染んだキスは、やっぱり甘い味がした。
湿った水音をたてながら絡ませあう熱が愛しい。こうして言葉のかわりの行為で想いを分かちあえる存在が愛しい。
ずっと側にいたいとおもう。ずっとずっとずっと一緒に。
怒涛の流れのなかで迷いながらも月が、月自身が。竜崎とともにあることを選択した。握られた手を握り返した。自分の
考えで、自分のこころで。
だからもう迷わない。後悔もしない。これからもこの男と一緒に、
自由な世界を。
軽いリップノイズとともに口づけを解いた竜崎は、月のヘイゼルの髪を丁寧に梳いたあと、
「旅船の船長ほか皆さんと段取りの打ち合わせに行ってきます。せっかくの月くんの決心が鈍るといけませんので、
従者の方々とのお別れは最後の日にして頂きます」
「ずいぶん信用ないんだな」
「慎重で用心深く臆病な男なんですよ私は。ああでも月くんは知ってますね」
どこがだよと笑って、ふたたび仕事に戻る男を部屋から送りだして、窓辺からもういちど外を眺めた。
眼下の真っ青な海にうかぶ小さな月の旅船。なかには月のために夜の国からずっと、この危険な航海を支えあい励ましあい
付いてきてくれた月の大切なひとたちが。
月がこのまま陽の国に赴かないことで彼らはまちがいなく、多少なりとも不利益を被るのだろう。
それは本当に申し訳なく、また王室の子としての責務を果たせない辛さにジクジクと心は痛むけれど。
脳裏を掠めるダイヤモンドダスト。夢幻にひろがる雪原野。揺れる松明のオレンジの灯り。
朗らかに微笑むひとびと。歌声。湯気がのぼるあたたかいミルク。甘いチョコレート。
父親である夜神の優しい、誇らしい笑顔。
うつくしい私たちの夜の国。
ごめんなさい。何もかもを投げ捨てて、勝手に逃げる自分を赦してください。
ごめんなさい。
月は、やがて永遠に会えなくなる親しい人たちと祖国の風景を想い描きながら
しろい波間のちいさな船を、切なく見つめつづけた。
明日。旅船と別れますと告げられたその日の夜。
いつもより早い時間に私室に帰ってきた竜崎はすぐさま月を抱きすくめてきて、いつもよりずっと長い時間を
ふたりいっしょにベッドで過ごした。
竜崎の愛撫ははじめは繊細で丁寧で、やがて執拗なまでに荒々しく月を啼かせ、疲れきった月は明日の別れに
感傷的になる余裕もなく。
折り重なるみたいにうつ伏せた竜崎の胸のなか、規則的な鼓動を子守唄にあっという間に眠りにおちた。
いつものように髪を撫でられるのを感じながら。
そしてむかえた、眩しい朝。
「僕は陽の国には行かない」
最後の別れのために乗りうつった祖国の旅船。
部外者はいない方がいいだろうとの配慮から、竜崎も竜崎の部下たちも引きあげたあと、食堂を兼ねた広間に集まった
従者たちの前で、おそらくはすでに竜崎から聞いているであろう事情を月は簡潔に自ら説明し、謝罪のことばを口にした。
「以前にも話したとおり、僕はこのまま竜崎たちと一緒に行きます。
はじめからそれが、この船と皆を陽の国に無事送り届けるための約束だったから。
僕が陽の国に行かないことで、きっと皆にはとても迷惑をかけると思うけれど、太陽の王は慈悲深く誠実な方だと聞いて
います。遠路遥々辿りついた友好国の船にたいし、無碍な扱いはしないと思う。
だから心配しないで。僕のことも、たぶんもう皆とは会えないとおもうけれど、どうか心配しないで。
これからの皆の無事としあわせを祈ります」
ごめんなさい。さようなら。
淡々とした月の別れの挨拶に袖口で涙をぬぐう者もいたが、大部分の従者たちはみな、うつむき複雑な心中を隠せない
様子だった。
当たり前だと月はおもう。本当なら月がいなければ、彼らが陽の国に行く理由すらないのだから。
哀しみよりも先立つものは、今後への心配や恐れの感情だろう。
痛ましげに眉をよせ、困惑したように、不安気に、やるせない表情の彼らとその場の雰囲気に、いたたまれない思いを
味わっていた月は、
「…ライト」
「なんだミサ」
「竜崎さんから何もきいてないの…?」
金髪の少女が言ったセリフに、眉を顰めた。
「竜崎がなんだって?」
「なにも聞いてないのね」
「だから」
「ライトは竜崎さんと一緒にいたいの?」
「え?」
「脅されてるとか、私たちを人質に取られているからじゃなく。ライトが竜崎さんと一緒に行きたいと思ってるんだね」
「それは…」
おもいがけない問いかけに口篭る。王室の子として、臣下に対する裏切りの言葉を口にするかどうか一瞬迷ってから
月は覚悟を決めた。
これが最期になるなら、せめて誠実でありたいと決めたから。
「…ん…本当は、僕が竜崎を選んだんだ。ごめんミサ。ごめんなさい皆」
どうか赦してください。
「謝ることないよライト…ライト…こんなの酷いよ…ライトが可哀想だよ…」
「ミサ?」
「どうしてなの竜崎さん…こんなのってあんまりだよ…!」
周囲からも次々と嗚咽が洩れている。不審に胸騒ぎがした。どうにも様子がおかしすぎる。
───そのとき。
おおきく旅船が揺れた。
「!」
驚いて、転びそうになったのを慌てて体勢を立て直し、どういうことかと咄嗟に周りをみまわす。
従者たちの顔をみた瞬間。
はじめて月は、すべてを理解した。
甲板に走り出る。そして事実を目の当たりにして、叫んだ。
「竜崎!」
いつの間にか二艘の船を繋いでいたロープが外されていて、少しずつ、だが確実に着実に竜崎の海賊船が離れていく。
ゆっくりと見えるそれはみるみるスピードを上げ旅船との距離をあけて、蒼い水面と白い波がその間を遮った。
月は激しく混乱した。どういうことだ。どうして。どうして。どうして。
「待てよ!待って!竜崎!どうして………!!」
置いていくんだ!!
絶叫は打ちよせ砕け散る波の音に掻き消された。返る答えはなく、あまりにも突然に呆気なく、竜崎は月の側から
消えていった。
キスもかわさず。顔をみることもなく。ひとことの説明も別れのことばもなく。
そう。冷静に判断していた。これは別れだ。竜崎は月を陽の国に行かせるために、旅船に乗りうつらせ、隙をみて去って
行ったのだ。
血の気のひく感覚と同時に足元がフラついた。立っていられなくて崩れそうになった月を従者の誰かが支えてくれたけれど、
月にはわからなかった。口々に話しかけられる声も聞こえなかった。
頭のなかが真っ白で、なにも考えられない。
捨てられたんだ。
そんな単語がポカリと頭に浮かんで、走馬灯のように記憶がフラッシュバックした。
───好きになってくれると嬉しいです。
これからは私の腕のなかで泣きなさい。
貴方に出会ったときから、ずっと見せたかった。この景色を。この世界を。
私がこれから、何も知らない月くんに一から教えてさしあげます。キスの仕方も、気持ちのいいセックスも。
人を好きになるという事がどういうことなのかも。
貴方の知らないたくさんの事を、私が教えてさしあげますよ。
握った手を離さないで。ずっと一緒に自由な世界を。
───愛してます。
嘘つき!!
見捨てられた。もう二度と会えない。永遠に会えない。捨てられたんだ。好きだと言ったくせに、愛しているといったくせに、
抱き締めてくれた腕はもう二度と。
竜崎。
りゅうざき。
「───………っっ!!」
なにを叫びたかったのかわからない。声もでない。
一面の蒼い海原に反射する光が唯ただ眩しくて
やがて世界がまっしろに遠のいて、途切れた。
涙もながれなかった。