傾いで倒れる身体を、とっさに腕をのばし抱きとめた。
痩身にみえる男の肉体は鋼のように重く固く、冷えきっていた。
咽喉から、意識とは切りはなされた本能の悲鳴が迸った。高くたかく、昏くなりはじめた空に尾をひくそれに、
周囲が氷のようにピシリと凍える。
数秒の間をおいて。
戦闘が終結した船のうえはべつの恐慌につつまれた。
「竜崎!竜崎!竜崎!りゅうざ…!」
「月さま。離れてください」
完全に取り乱した月の叫びをワタリの低い声が遮る。
担架に乗せられ運ばれる竜崎にとりすがっていた月を、アイバーとウェディが無理矢理ひきはがした。
「りゅうざき!りゅうざきっ…りゅうっ」
「ライト落ち着いて。私達の声が聞こえるわね?」
「大丈夫だ。大丈夫。落ち着いて、目を閉じて、息を吸って、吐くんだ…吸って、吐いて」
背後からシッカリとアイバーの腕に拘束され、ウェディの両掌で頬を包まれた月の瞳は見開かれたままだ。
おそらく今まで一度も、目の前で親しい人間を失うかもしれない恐怖を、経験したことがないのだろう。
まして竜崎が。そんなことが。
衝撃に硬直し焦点が定まらないヘイゼルの瞳に、竜崎の部下たちは必死で声をかけ続ける。その横を、慌しく
布がかぶせられた担架と、老人と、男たちがすりぬけ船を乗りうつっていく。
遠くでは戦いの終わりを知らせる花火が上がり、駆けつけた援軍が残党を始末する雄叫びや、さまざまな指示を
だす怒声が飛びかったが、
どれも月の耳には入ってこなかった。
竜崎が。
「しっかりするんだライト。Lはまだ死んだワケじゃない」
「そうよまだ生きてるわ。助けないと」
竜崎。
「ライト!」
───死んだわけじゃない。
突如。思考がクリアになった。
はねのけられた両腕にアイバーが驚く。正気をとりもどしたらしい月の両眼は異様なほどに煌いていて、
しかし開いた唇からもれたセリフは冷静そのものだった。
「どうして竜崎はいきなり倒れたんですか。矢傷はたいしたことないと本人が言ったのに」
「………多分だが、毒矢だったんだろう」
「毒矢」
「猛毒がぬってあれば掠り傷でも致命傷になる。そうでなくても、傷口から毒が血流にのって全身にまわれば命を落とす」
「そんな」
「たしかLはある程度、毒にも耐性をもっているはずよ。おそらく矢に塗られていたのは相当に強い毒だわ。
それが体内に入ったショック症状で倒れたのよ。でも彼は強い。まだ絶対に生きているはずよ」
助けないと。
「竜崎はどこに」
「船の私室に運ばれた。ワタリが医療に関しては詳しい。手当てしているだろう」
「僕も手伝います」
「ライト」
細い声が背後からかけられ、ふりかえった。
金髪の少女がふるえながら立っていた。
「ゴメン…ミサの…ミサのせいで…ごめんなさいライト…」
「ミサ」
ちがう。ミサのせいなんかじゃない。
それを言うなら海賊の修羅場にシャシャリでた月が悪い。
いやそれも違う。
月を想ってこの旅についてきたミサ。そのミサを、旅船の従者たちを想って戦った月。
その月を想って、月のたいせつなひとたちを月自身を守るために身を呈した竜崎。
だから。
「…ミサはまず自分の怪我の手当てをするんだ。その後で他の負傷者を助けてやって欲しい。出来るよね?」
「ライト…」
「僕は竜崎を助けるから。ミサは僕のかわりに、ほかのひとたちを」
「………うん。わかった」
コクリと、力強く頷いた少女に微笑んで、月は走りだした。うしろにアイバーとウェディが続く。
約束どおり命をかけて守ってくれた男を。
こんどは自分が、守るのだ。
ワタリは精一杯、出来るかぎりの適切な処置を行った。
きけば、竜崎の医療に関する知識の多くは、ワタリから教わったものらしい。良き師から基礎を学んだ竜崎は、
独学でもたくさんの技能を身につけた。
以前に飲ませてくれた煎湯。実はあれも、元はワタリから、それを竜崎なりに改良した薬に、発熱した月は救われたのだ。
月は、竜崎にもワタリにもずっと守られていたのだと今更ながら実感する。
しかし海のうえの船のなかでは、治療にもとうぜん限界がある。
つとめて静かな口調で「あとは竜崎次第です」とつぶやいたワタリの言葉に、月は唇を噛みしめた。
何人もが付き添う必要はないと、月だけが竜崎の側にいた。ほかの者たちは戦闘の後始末や、たおれた長の代わりの
指揮をとるために仕事にもどった。どれほど内心悲痛であってもプロは仕事を疎かにはしない。
いつもふたりで眠るベッドのうえ。
広い部屋のなかに荒い呼吸音だけがこだまする。
水に濡らした布で滝のように流れる汗を拭いながら、月は包帯を巻きつけた腕にふれる。
月を苦しいほど抱きすくめたそれは、今は力なく垂れ、握った指先も握り返してはくれない。
ひどく冷たかった。
大丈夫。大丈夫だ。殺したって死なないような男なんだ。ずうずうしくて図太くて強い男。
ワタリの話では、今夜が峠だ。毒に耐性のある竜崎は血流にのった毒そのもので命を落とす可能性が低くても、
激しいショック症状と、血圧の上下による負担で心肺停止する危険があると言っていた。
皮膚の表面は冷えきっているのに、肉体の内部は燃えるような熱を発している。カタカタちいさく震えている手を月はギュッと
包みこんだ。
だいじょうぶ。だって約束しただろう?
何でも知っているオマエは、これからもなんでも教えてくれるって。
ひろい世界も、見たことのない景色も、うつくしい夕焼けも、甘いキスも、きもちのいい愛撫も。
好きだといって抱き締めあって、
そうしてこれからもずっとずっとずっと、一緒にいるんだろう?そうだろう竜崎。
静まりかえった部屋の中。こたえはない。
泣いてどうするとおもった。
なんどか口移しで苦しそうに喘ぐ男に水を飲ませた。こんな形で自分からキスする事になるなんてと皮肉に思い、
また泣きそうになって歯を喰いしばった。
いつの間にか時計の針は深夜をすぎていた。
疲れていたが大した事じゃない。汗をぬぐう水を交換しようと、月が椅子から立ち上がった
そのとき。
「!」
横たわっていた竜崎の身体が、陸揚げされた魚みたいにいきなり、跳ねた。
何回か大きく痙攣したあと、ガクリとシーツに沈む。
───ショック症状だ。
愕然と血の気がひいた。
月の叫びを聞きつけたワタリが飛びこんでくる。竜崎は息をしていない。あれほど高熱に魘されていた身体が、みるみる
体温を失っていくのがわかった。
人口呼吸とマッサージを施しながら、ワタリが体熱維持を指示する。どうしたら良いかわからない月は無我夢中で衣を
脱ぎすて裸になると、抜け殻となりかけている男の肉体に必死でしがみついた。
いくな。僕をおいて。約束をやぶって。逝くんじゃない。そんなのぜったい許さない!
脚を絡ませ腰に腕をまわし頬をすりよせる。失われようとする魂を全身で引きとめた。
かわりにありったけのぬくもりを与えて。
還ってこい。かえってこい竜崎。ずっと一緒にいて。そばにいて。すべてをとりあげておいて、すべてを与えた男。見たことの
ない景色。広い世界。羽ばたく自由。そうして何もかも変えたクセに、いなくなるなんて許さない。理由になると言ったじゃないか。
好きだと言って、逃がさないと言って、ずっと一緒だと言ったじゃないか!
約束を。
守って、竜崎。
握った手を離すな。
フッと。
ワタリの手の動きが、止まった。
ずっと一緒にいられるのだと信じて疑わなかったから。ちゃんと伝えられなかったんだ。
このほんとうの想いを。
こころもからだも全部ぜんぶオマエのことがずっとずっとずっと。オマエとおなじように。
すきだよ竜崎。
すきだったんだ竜崎。
いちばん最初に感じたのは、やさしく髪を梳く指先。
寄り添う体温。あたたかい素肌。
朝。
突き刺さるみたいな眩しい陽の光に、月はうっすら重い瞼を押し上げた。
そうしたら鼻先がふれあうくらいの至近距離に、見慣れた、なのに懐かしい気すらする男のまっくろな両目と、まっくろな隈が。
「おはようございます月くん」
「………おはよ」
惚けた掠れ声に、こちらも掠れた声でいつもの朝の挨拶をする。
ボンヤリ雫がこめかみを伝うのがわかったが、こらえる気にならなかった。
横たわったまま自分を見つめボロボロ涙をこぼす月を、竜崎は不自由そうに片手でそっと抱きよせた。
泣かせてしまって申し訳ないと思うけれど、どうせ泣くなら腕のなかで泣いてほしい。
「ありがとうございます月くん」
私のこと守ってくれたんですね。
ふたたびやさしく髪を梳く、還ってきた男の胸に顔を埋めて、月は声もなく泣きつづけた。