「だから貴方を旅船にもどすのは嫌だったんです私は」
部屋に入りドアを閉めた途端。
そんなふうに苦々しく呟いた男の顔を、月は無言でじっと見つめた。
「月くんはおそろしいほどの愛国精神と自己犠牲精神の持主です。ご自分の船に戻られて、従者の方々と顔をあわ
せればイヤでも自分の立場だの役目だのを思い出すでしょう。そしてまた余計なことを考えだすに決まっています。
でもどうせ考えたところで無駄な事ですよ。さっさと止めなさい」
「…僕は、オマエのモノだから」
「そうです。私は今後も貴方を手放す気は微塵もありません。諦めてください」
うつむき扉のまえで突っ立ったままの月をみると、竜崎は軽く息を吐いて、それから棘をおさめた。
華奢な肩に手をのばし、そっと抱きよせる。
「すみませんでした…月くんを責めても仕方がない。やつあたりですね」
頬に触れると軽く合わせるだけの口づけをおくる。
腕のなかで目を閉じた月は、無意識にだろうか。包まれた竜崎の掌に甘える仕草をした。
途端、いとしさが溢れる。
たとえ月のなかでこの感情に名が付いていなくても。互いにきもちは、通いあっている。
「貴方は陽の国に行きたいのですか?ほんとうに太陽の王の后になりたいと?」
答えがイエスだろうがノーだろうが、月を解放する気など欠片も持ちあわせていない竜崎だったが、試しにたずねてみた。
結論は出ている事だが、一度きちんと話し合うのが望ましいとは以前から感じていたので、良い機会でもある。
月はうすく瞼をあけると、しばらくのあいだ口をつぐんだままだった。
長い睫がこまかく震えた。
「…僕は裏切り者だ」
「月くん」
「陽の国に行きたい。太陽の王の妻になりたい。竜崎、どうか僕を解放してくれ。自由にしてくれ。
………ほんとうは、そう言わなくちゃいけない、のに」
色づいた艶やかな唇もふるえている。
ちいさな掠れた、声。
「自分がどうしたらいいのか、わからない。僕は、生まれたときからすべてが決まっていたんだ。
王室の子として夜の国のために尽くす。必要があれば、べつに陽の国にはかぎらない。
何処の誰の后になってもかまわなかった。ただ、夜の国のために、そうすることが当たり前だったんだ」
それが自分の存在価値。生きてきた理由。
でも月は、自分が不幸だとおもったことは一度もなかった。
皆に愛され大切に育てられてきた。傷ひとつ付かないように。それも真実。
だから月の意思が無視されている訳ではなくて、そうすることが、月の意思で。
ひとは、生まれたときからある程度の枷を背負い、さだめられた枠のなかで人生を過ごすのだと思っている。それは諦め
などではない。身分の上下に関係なく、ひとに平等に与えられた使命。
宿命。
無限の選択肢を自由を掴んでいる人間などこの世に存在する筈もなく。
雪祭りの夜に父も言っていた。
キラキラ光るダイヤモンドダストを浴びながら、目を細め、誇らしげに笑う尊敬するひと。
うつくしい国だろう。私たちの祖国は。なあライト。
夜の国と国民を守ることが、私たちの使命なんだ。
お前も、父さんと一緒にこの国を守るんだぞ。
うん父さん!ぼくもまもるよ!
………僕が。
愛する国と愛するひとたちを。
「守るために。
それが僕のいちばんの望み。それが僕のいちばんのよろこび。…だけどもう叶わない。
オマエが、すべてをメチャクチャにした。竜崎」
「…以前にも言われた言葉ですね」
「何もかもオマエのせいなんだ。だから。───責任、とれ」
ゆっくりと。
俯いていた白い貌が上がった。
吐息がふれあうほどの距離で視線がぶつかり、交じりあう。真黒い瞳とヘイゼルの瞳がヒタとかさなり、互いの色をうつしだす。
真摯に。ひかりを反射し輝く月の目が。この世のどの宝石よりも綺麗だと竜崎はおもう。
「僕を捕まえて逃がすな。オマエにとらえられて僕はもうどこにも行けない。オマエのせいで僕はぜんぶ失った。国も、家族も、
未来も、存在理由さえ。なくした僕の目の前にいるのは竜崎、オマエだけだ。
だから僕はオマエを選ぶんだ。
握った手を、離すな」
あなたにであい。あなたにとらえられた。ぜんぶあなたのせい。
だからわたしはあなたをえらぶ。
両腕で細い肢体を力いっぱい抱きしめる。背中がしなり僅かに苦しげなため息が洩れたが、月は抵抗しなかった。男の拘束に。
ソロリと垂れていた腕が持ちあがり、竜崎の束縛する袖のあたりを躊躇いながら指先でつまむ。
気配でかんじて、さらに腕の力を強めた。
腹の奥から突き上げる衝動に、このまま抱き殺してしまいたいとすら、思った。
やわらかな耳朶に噛んで含めるように、ささやきかける。
「私が、貴方に理由を与えます」
「竜、崎」
「太陽の王の后にならなくても。国のためでなくても。貴方は生きられるんですよ」
「…どうせ、僕を手放す気は微塵もないって、言ったばかりじゃないか」
「私が解放すると言っても、月くんは陽の国には行きたくないでしょう?私と別れて見知らぬ男の妻になんか、
なりたくはないでしょう?」
「離すなっていってるだろう!」
胸に顔をうずめたまま、微かに潤んだ瞳だけが苛立ちと怒りをこめて見据えてくるのに、嬉しさがおさえられない。
純粋な愛おしさと歓びと、そこにトロリとまじる昏い愉悦。
口角が笑みにゆがんだ。
「責任とれって!」
「はいそうですね。月くんは私のモノですから他の誰にも渡しません。貴方が泣いて解放を求めても、逃がすつもりもありません。
私が、貴方の理由になります。そして私が貴方に自由を与えます。
月くんは私と一緒に、本当の自由と、世界を。見てまわりましょう」
「ほんとうの…自由…」
つぶやく月は、まだどうしても認められないのだから。
竜崎と過ごした時間のなかで学んだこと。広い世界。眩しい光景。そして男に惹かれる自分の、想い。
それと相反する17年間つみかさねてきた価値観。祖国愛。責任感。月を慕うひとたちの笑顔。
どちらも選べない。だから。
竜崎は月を拘束する。迷う月を捕まえたまま、解放を与え、解放を餌に、あたらしい鳥籠へ。
「これからも一緒に、月くんが見たこともない景色をたくさん見せてあげます。可愛い動物も色鮮やかな植物も。朝焼けの大海原
に夕闇の鳥たちの群れ、満天の星空。不思議な肌と髪の色の人々。聞いたこともない音楽とリズム。異国の言葉、文化、芸術。
まだまだ貴方の知らないたくさんの事を、私が教えてさしあげますよ」
「竜崎…」
貴方のなかの美しい炎。生命のともしび。知性の欲望。いちど新しい風を吹き込み燃えさかれば、
もう誰にも消すことは出来ないだろう。月自身さえも。
やがて翼を大きくひろげ、閉じ込めていた鳥籠から、掌をすりぬけて───。
そこまで考えると竜崎は激しく月に口づけた。
とつぜん唇をふさがれ、驚いているあいだに口内を弄られ、絡んだ舌のうごきを夢中で追ううちに
しだいに身体から力がぬける。
吸われ、うながされ、月は溶けあった唾液も飲み込んでみせた。
ふたりきりの室内に、湿った水音がながく続く。
竜崎の施すキスは酷く執拗で、みだらだった。
嫌なことをイヤだと、哀しいことを哀しいとすら、気づく余地もない箱庭で育った可哀想な子供が、
とつぜん目の前にひろがった未知の世界に、与えられた選択肢に、身をすくませ選ぶことも歩きだすことも出来ないと
いうのならば。
私が強引にでもその手を握り。離さないで。貴方を連れて自由な世界へ。
けれど鳥籠の蓋は閉ざしたままで。