ふれてみた竜崎の唇はすこしカサカサしていて、あたたかい。
背中にかんじる体温も、掌で包みこまれた頬も、きもちいい。
最初はかるく。それから何度かしっとりと押しつけあう。
ついばむみたいに下唇を咥えられて、くすぐったさに月は閉じていた瞳をひらいた。
睫が触れあうほどの距離で、竜崎の真っ黒な目がじっと月を見つめていた。
くちびるが離れる。
「不思議な感じなんだな…キスって」
おもったことを正直に口にしたら、男はさらにマジマジと凝視してきた。薄闇に黒々とした眼球の光だけが炯々と
映えていて、表情がいまひとつわからない。
「…はじめてなんですか?」
「え?」
「月くんは、キスをするのは初めてなんですか?」
なにを尋ねられているのかよく理解できずに、今度は月が竜崎を見つめ返した。
小首を傾げると、
「あたりまえだろ。初めてだよ」
答えたら、男はしばらく押し黙ったあとでもういちど唇をかさねてくる。月はそっと目をとじた。
きゅうに濡れた感触がした。舐められた。驚いて瞳をひらくと同時に、緩んだ唇のあいだから竜崎の舌が侵入して
きて、月は硬直する。
「………っ」
ヌルッと強引に絡み合う。粘膜と粘膜の擦れる感覚と、口内でかんじる他人の、熱。
嬲られるように好き勝手されるのをどうすることも出来ないままに、抱かれた腰から背筋にかけて細やかな痺れが
はしりぬける。
ふるえだす足。つまる息。
すがるみたいに握られるしろい指先。
はげしく吸われて抵抗も考えつかない内、しかし時間にしてみればほんの僅かなあいだ。
微かな水音をたてながら竜崎から開放された時も、月は唖然と固まったままだった。
キスをした。竜崎と口づけを交わした。それはわかっている。だけど今のは。
「月くん?」
混乱した月が咄嗟に考えたのは、あたりが暗くなっていて良かった。だった。
自分が竜崎の表情を読めないように、きっと竜崎にも紅潮した頬を見られることはないだろう。ぜったい、真っ赤に
なっている筈だ。
「下に降りよう竜崎」
つとめて冷静な声をよそおいながら、月は早く顔色と鼓動がもとに戻ってくれることを祈っていた。それだけを
思っていた。
いまは何も考えられない。駄目だ。落ち着いたらあとでゆっくり考えるから、とにかく、今は。
逃げるように腕からすりぬけて梯子に向かうそんな月の背を、竜崎の複雑そうな視線が追う。
空には降るほどの星の輝き。
船のあちこちに灯された篝火が、あかるく海闇を照らしはじめている。
ふたりで私室に戻ってきたが、落ち着かない。
月はベッドに腰かけると、身につけたブルーダイヤと髪飾りをはずした。
なぜか竜崎はさきほどから無言のままで、部屋にながれる微妙な空気に、密やかにため息を落とす。
しばらくしたら竜崎はまた仕事で、いつものように出て行くだろう。
今晩は先にひとりで夕食を食べて、そのまま寝てしまえば明日の朝にはきっと、この妙な雰囲気も消えているに
違いない。
そう考えながら月の指先が。無意識に自分の唇をなぞる。
実は部屋に戻ったときからずっと、男に横目で観察されていたことにも気づかないまま。
「月くん」
「ん?」
不意に声をかけられ振り仰いだ。いつの間にか竜崎がすぐそばに立っていた。
「なぜキスしたんですか?」
「…なんだって?」
「どうして、私とキスをしたのですか?」
「───」
思いもよらない質問をされて呆気にとられた。竜崎は上から覆いかぶさるみたいに月の顔を覗きこむと、
「好きです。知ってますよね」
「………はい」
「私は好きだから、貴方に口づけました。月くんがキスをした理由はなんですか?」
「それは」
「抱いてもいいですか?」
「!」
いきなりベッドに押し倒された。
訳がわからないまま、圧し掛かってきた男の肩を月の細腕が拒絶する。片手でつかまれ頭上でひとひねりされて、
咽喉からほそい苦鳴がもれる。
それを塞ぐかのように再度、無理矢理口づけられた。
「っ…う…っ」
歯をくいしばって侵入を阻止する。唇の端から唾液がこぼれた。男のもう片方の手が、衣の上から身体を弄るのに
全身を捩って抵抗を示す。
月の意思を無視して行われる行為に、月は嫌悪しか感じていない。
急にうごきが止まった。
固く閉じていた目を、薄らとあけた。
竜崎の、無表情な瞳がジッと、問いかけている。
嫌ですか?
ことばにするより早く。月が言った。
「嫌だ」
「月くん」
「いやだ竜崎…やめてくれ」
素直に竜崎は月のうえから身体を退く。
それから、慰めるみたいに手がのびて、シーツのうえに乱れたヘイゼルの髪を梳いた。その穏やかな仕草からも
行為が本気ではなかったことが伺えた。
「すみませんでした。でも私がこうして貴方を抱きたいと思っていることも、知ってましたよね?」
「………」
「私とキスする意味は、こういう事ですよ。私は家族愛のような好意や、触れるだけの優しい口づけが欲しいのでは
ありません。どうか覚悟してください」
「それも…知ってる」
消え入りそうなちいさな呟きに、髪を梳いていた指を滑らせると艶やかなくちびるを撫でた。
ピクリとふるえる淡い紅色がとても綺麗だとおもう。
月は仰向けにベッドに横たわったまま、
「ごめん…僕も、たぶん竜崎が好きだ…だけどこういうのは…正直よくわからない。
好きだけど…キスとか気持ちいいとは思うけど…だからってオマエとこういう事するのを、受け入れられる訳じゃないんだ」
「………キスは気持ち良いんですか?」
「ん。何かくすぐったくてあったかくて…きもちいいよ」
グッと。
堪えるように低くうなったあと、男は我慢のためにガシガシと親指を噛む。
まるで拾ってきたばかりの警戒心の強い仔猫のようなものだ。人肌には甘えたがるくせに、手を出そうとすると爪をたてる。
慎重に慎重にていねいに。懐柔していくしか、手にいれる方法はなくて。
「参りましたね…慣れていないどころの騒ぎじゃないんですね。
ちなみに月くん。キスは初めてだったそうですが、自分でした経験はあるんですか?」
「…?…え?なにを?」
「───わかりました」
もういちど上体をかがめ唇の端にかるく口づけた。
不思議そうに見上げてくる瞳に、
「私がこれから、何も知らない月くんに一から教えてさしあげます。キスの仕方も、気持ちのいいセックスも。人を好きに
なるという事がどういうことなのかも」
「なっ!」
真正面から顔をつきあわせて胸張って、何てことを言い出すのだろうこの男は。
ふたたび顔が赤くなる気がして、月は飛び起きると怒鳴りつける。
「余計なお世話だよ!何も知らなくて悪かったな!だいたい竜崎にそんなコト教わる必要性はない!」
「だって月くんは私のこと好きなんでしょう?どうせ好きになったのなら、私とそういうコトした方が良いと思いますよ。
どうせするんだったら好きになった人との方がいいですよ。好きならいずれ、したくなりますよ」
「だからそういう意味の好きかどうかわからないって…あああ仕方ないだろ!
僕は夜の国の王室第一子なんだ。その立場に恥じるような不道徳な真似はしないし出来ない!
今までもそうだしこれからもそうだ!だからたぶん…竜崎とはそういう関係にはならない!」
「たぶん、て…本当に可愛いひとですね…」
わめく仔猫を抱きすくめあやしながら。
見たこともない月の父親を、竜崎は心のなかで罵った。
夜神の王はいったい何を考えていたのだろう。
セックスはおろかキスの経験すらない子供を、国のためとはいえ見ず知らずの男のもとに嫁がせる。それがどれほど
残酷なことなのか、判らない訳でもないだろうに。
それならばいっそ、性に対し頓着なく解放的に育てれば良かったのだ。そういう性格に育てあげれば、よかったのだ。
なのにうすうす気づいてはいたが、月の潔癖と純潔は、行為への経験の有無を越えて精神の未熟さすら感じさせる。
好きだと言い、与えられる口づけを自然に受けいれた。なのにその己のこころの在り方すらわかっていない、
あまりにも幼く無知な子供。
強く、脆く。おそらくは怖ろしく壊れやすい、あまりにもうつくしいひと。
腕のなかの甘く香る華奢な肢体に、良かった。と竜崎はおもった。自分が捕まえて本当によかった。
自分ならこの人をけして壊したりはしない。
愛し、守り、
ほかの何者にも。けして渡したりはしない。
「好きですよ月くん」
耳元でささやくとピタリと静かになる。不機嫌に眉をよせる。
その赤く染まった耳朶を、竜崎はやさしく甘噛みした。