月の体調が回復したことを確認すると、翌日。
約束どおりに竜崎は、浴室にたっぷりと湯をはったバスタブを用意してくれた。
一年を通して平均気温の高い南の国々では、その習慣があるかどうかすらわからないが、さむい夜の国で育った月は
たいへんな風呂好きである。
もともと汗をかかない体質のうえに見るからに綺麗好きな月は、寝こんでいる間に汚れた身体をはやく清潔にしたくて
たまらない。
「月くん。どうぞ」
「ん。ありがとう」
促されて湯気のこもる浴室に入る。準備を手伝っていたワタリは用事で退室していた。
ドレスの紐をゆるめていると、いつの間にか背後に立っていた竜崎が指をのばしてくる。背中で結ばれているリボンを
解いてくれているらしい。
月は華奢な肩からパサッと衣を落とした。はやく脱ぎ捨てて、熱い湯につかりたかった。
「月くん」
「ん?」
「気にならないんですか?」
「なにが?」
「…私がここに居ることがです」
パチパチッと。長い睫がまたたいて、振り返った。
竜崎の目の前には、ほぼ半裸に近い愛しいひとの姿がある。
月は不潔を気にしているが、竜崎にしてみれば、その晒された白い柔肌に今すぐにでも舌を這わせてみたくて堪らない。
きっと、ひどく甘い味がするに違いない。
不思議そうに顔を見つめたままちょっと小首を傾げると、
「僕の裸なんて竜崎はもう何度も見てるじゃないか」
「そういう問題ですか。それに何度見られても恥じらいは大切でしょう」
「そういう問題でもないな。じゃあ居なくなってくれないか」
「嫌です」
「じゃあ一緒に入る?」
「………」
不毛な問答のすえ押し黙ったあと。
「外でお待ちしています」とつぶやいて竜崎は浴室から出て行った。
ドアが閉まる際に「…すこしは警戒してください」というセリフが聞こえた気がした。見送った男の肩が、微妙に下がって
いた気も。
しかしあまりこだわる事なく、月は一人になってから衣をすべて床に落とすと、タイルのうえに足をのせる。
濡れた感触に足裏がヒヤリとして心地良い。
竜崎の存在は、べつに気にならない訳ではなかったが。素肌に感じる男の視線は、いつだってチリチリと焼けるみたいな
刺激を月に与えていて、とても無視できるモノではなかったから。
以前は不快で、緊張して、それから認めたくはないがほんの少し怖かったそれが、しかし、…今は。
ゆっくりとバスタブに身を沈める。満足の吐息がもれた。身体もこころもほぐされる。きもちいい。
傍らにあるワタリが用意してくれた花のバスオイルが、豊潤な香りをまき散らす。
その残り香がまた、男を煽ることにも。
月は気づいていない。

風呂から出て、新しいドレスを身につけた。
薄く涼しげなサラサラとした生地でつくられたそれは、白を基調に何色もの淡い色でグラデーションに染められていて、
部屋もどった月を見て、竜崎はグリンッと見開かれた目のまま、しみじみと言う。
「うつくしいですね」
「…ああ。ドレスがね」
「違いますドレスを着た貴方がです」
ため息をつく。美しいですね。綺麗ですね。くりかえされる単純な賛美の言葉は普段、月の上辺しか見ていない男たちから
贈られると、ひどく不愉快を覚えるものだ。
でも。今は悪い気はしない。
…それどころか誉められて嬉しい、だなんて。
「月くんこれつけても良いですか?」
「竜崎は本当に僕を飾りたてるのが好きだな」
「綺麗なものをより綺麗にしたくなるのは人間の当然の欲求ですよ」
「ふうん」
煌くブルーダイヤを滑らかな頸にかけ、きらびやかな髪飾りで短い月の髪を結う。
指で梳くヘイゼルの絹糸からも、眼下の肌理こまやかな絹肌からも。
風呂あがりの甘く誘うような蜜の香りが立ち昇ってきて、男はひっそりと囁いた。
「綺麗なものを汚したくなるのも、男の当然の欲求ですが」
「ん?なにか言ったか?」
「いえべつに」
飾り終えた月をジックリ眺め、竜崎は満悦の笑みをうかべる。それを見て、ヘンな顔だなあと月は好ましく思う。
うやうやしく手をとられ、座っていた椅子から立ち上がった。
「外に出ましょう」
男の誘いに、素直にうなづいた。

時刻はすでに夕方になっていた。
甲板に手をつないであらわれた長とその思い人の姿を、船員たちは遠巻きに見守る。
月の存在はすでに周知の事だったが、吹く海風にドレスの裾をなびかせて、腰にまわされた竜崎の腕に守られるように佇む
美しいひと。
海賊船の上でふたり寄り添うそこだけが、まるで一枚の絵の如くに切り取られた空間だった。
あかい陽が海に沈んでいく。
空はオレンジ、ピンク、パープル、グレーと様々なカラーグラデーション。月の着ているドレスみたいな、それよりももっと複雑な。
絵の具をパレットのなかで混ぜ合わせ、大海原のキャンパスに。
「すごい…」
「うえに上がってみますか」
なぶる風に髪飾りをおさえながら空を見つめ続ける月に、竜崎が言った。
「うえ?」
「はい。見張り用の展望台がありますのでそこに。ここよりももっと素晴らしい景色が見られますよ」
蜘蛛の足みたいな指が示した先には、『L』の文字が刻まれた帆のすぐそば。かなり高い位置に、梯子のかけられた見張り台が
備えつけられている。
一瞬、躊躇したが好奇心が勝った。
「行ってみますか?」
「行く」
ドレスを捲り上げると慌てた竜崎が「私が持ちますから」と裾を掴んだ。任せて、うしろから手伝って貰いながら、月は意外に
要領よく梯子をのぼった。ピュウッと遠く船員の誰かが口笛を吹いた。
「うわあっ…」
のぼりきった途端。
眼前にひらけた光景に、言葉を失う。
───どこまでも。
どこまでもひろがる、鮮やかな世界。息をのむ。
風が。海が。空が。
眩しい。キラキラと輝く。
無限に色づいた世界が見渡すかぎりにひろがっていた。
身体が震えた。はじめてみた。いままで知らなかった。こんなにも美しい、こんなにも綺麗な、
こんなにも広大な世界を………。
「すばらしいでしょう?」
背中から両腕で月の腰を抱きながら、風に負けないよう竜崎が耳元で囁く。
聞こえているのかいないのか、月の瞳はまっすぐ彼方に、夕陽を反射している。
「月くんは知らなかったでしょう?世界は、こんなにも広いんですよ。鮮やかで、綺麗で。
私はいつもこの景色を見るたびに、自分が自由だと感じます。どこまでも解放されて本当の自分に戻れる気がする。
そして広い世界のなかのちいさな自分に、泣きたくなる時もある」
「………」
「貴方に出会ったときから、ずっと見せたかった。この景色を。この世界を」
髪に顔をうずめながら話す竜崎の声は、低くて、やさしい。
抱き締められながら月はいちど深く息を吸い、目を瞑った。
胸がつかえて、息がくるしかった。
そのままじっとして、また瞼をあけると赤く染まった波の向こうに、月の旅船が見えた。夕餉の支度がはじまっているのだろう。
開け放たれた窓から穏やかに湯気が流れている。
なにもかもが。
優しく月を包んでいる。
そのうちにヒンヤリと、冷気をかんじて気づいた。いつの間にか空も海も群青に変わり、ポツリポツリと星が瞬きだしていた。
「冷えてきましたね。そろそろ下りましょうか」
「竜崎」
解かれそうになった腕に手をそえる。ピタリ、と男が動きを止める。
竜崎が月に見せたかった景色。
竜崎が月のために見せてくれた景色。
なにを伝えたかったのかくらい、月にはわかる。そしてそれは確かに伝わっていた。言葉とともにその想いが。こころが。
いつもいつも。竜崎は月に教えてくれる。月の知らなかったことを、知識を、経験を、世界を、きもちを、
だから。
「ありがとう」
じっと目をあわせ、伝わりますようにと。そう言葉にすると、竜崎の月を抱く力がギュッと強くなった。
いつか。
いつか自分も。この男のように。
ひろい世界で、自由になりたい。

男の掌が持ちあがり、月の頬を撫で、つつみこむ。
月の長い睫が伏せられた。
引き寄せあうように自然に、唇がかさなりあっていた。