パタン。
扉の閉まる音で、ふっと覚醒した。
「………竜崎?」
「…すみません。また起こしてしまいましたか」
深夜。仕事を終えて戻ってきたらしい、部屋に入ってきた男に、眠っていた枕から少しだけ顔をあげて月は言った。
「おかえり」
「………ただいま戻りました」
しばらく間があいたのは相当おどろいたからだろう。久しぶりの月からのコミュニケーションに、平静を装ってはいるが
戸惑い気味の竜崎の様子を見て、月は微笑した。
「具合はいいようですね」
「煎湯が効いたみたいだ。すごく楽になったよ」
「それは良かったです」
素っ気なく、でも心底安堵しているのがその声色からわかる。
それでも竜崎はうかつに月に近よってもこないし、触れてもこなかった。きっと、ずっと月がさわられるのを嫌がっていた
せいだろう。
ランプの黄色い灯りだけが照らす薄暗い部屋のなか。上着を乱雑に放りすてると奥にあるソファに腰かけ、靴紐をとく男の
横顔を、じっとながめた。
そうでなくても曲がった背中をさらに丸めて、月が体調を崩してからずっと、竜崎は窮屈なソファで寝起きをしている。
「こっちで寝る?」
今度こそハッキリわかる勢いで。男が眼を剥く。
「…良いんですか?」
「熱で汗をかいたから、臭いかもしれないけど。それでも良ければどうぞ」
もともとは竜崎のベッドだし。そう呟く月の声など聞こえていないように、
「月くんは臭くなんかないです。…甘い匂いがします」
「はいはいどうでもいいよ。でも本当に汗は気になるから、できれば身体を洗いたいな」
「明日、風呂の用意をさせましょう。体調が大丈夫であれば湯をつかって下さい」
長い航海をする船の上では、真水は貴重品だ。ふつうは身体を洗うにしても湯は張らず、布を濡らして拭う程度である。
月のためであれば多少の非常識は通してしまうらしい男に、おかしくて少しだけ声をたてて笑った。
「気前がいいね。たいせつな人形は、やっぱりキレイにしておきたい?」
「………月くん」
ベッドの隣に滑りこんできた竜崎のうごきが一瞬、とまる。
それからここ数日でますます細くなってしまった月の腰に、両腕がまわった。
「抱き締めても?」
「もうやってるくせに言うなよ」
「機嫌はなおった訳じゃないんですね」
「変な言い方するな。べつに拗ねていたわけでもない」
「貴方が、私の不用意な発言と態度で傷ついていたことは、わかりました」
月はスッと笑みを消した。
それから間近にある男の目をにらんだ。
虹彩のないそれは、臆することなく逆に凝視してくる。
「…ふうん…ワタリさんからなにかきいたんだ?」
「月くんどうか聞いてください。私は、貴方を人形とか飾り物とか、そんな風におもったことは一度もありません。
たしかに貴方に話していない事は山ほどあります。でも、月くんをどうでもいいと思っている訳ではけして」
「それも。昼間ワタリさんからきいた台詞だな」
「いつか。…近いうちにいつか貴方には。話したいことがたくさんあります。
貴方に知って貰いたい私のこと。家族のこと。仲間のこと。船や仕事のこと。今まで過ごしてきた時間。辛かったことや
楽しかったことや。それから、これからの未来のはなし」
「竜崎」
「月くんに呼んで欲しい。私の本当の名前」
細い骨ばった、虫の足みたいな竜崎の指が、そっと並んで横たわる月の頬をなぞる。
きもちわるい。とは、思わなかった。臆病なほどの繊細なそのうごきに、男が心底月を愛おしむこころが感じられて。
緩く息を吐きながら、瞳を眇めた。
「…口先でなら何とでも言えるね」
「時間をかけて信じてもらうしかないですね。言葉ではなく、私自身を」
「そう。…じゃあもう一つきくけど、竜崎は僕のいったいどこを、そんなに好きだって言うんだ?
僕はオマエのことを何も知らないけど、オマエだって僕のことをぜんぜん知らないじゃないか。僕の外見以外はなにひとつ
知らないで愛情を説く、そんな相手のきもちを、どうして信じられるとおもう?」
一瞬、唖然とした。ポカンと目をみひらいた。
それは裏をかえせば告白ともなりうる科白だ。そのことに、喋っている当の月は気がついていない。
───ちゃんとわたしをみて。なかまでしって。それから愛して。そうでなければあなたの愛はしんじられない。しんじたいのに。
どうか、信じさせて。
潔癖なまでに純粋でおさない感情。この愛しいいとしい綺麗なひとはあまりにもこども。
竜崎はせりあがる衝動を押さえこむ。僅かに苦笑する。
………どこまで耐えられるだろう。本当にこれ以上傷つけないで、このひとを手に入れることなんて出来るだろうか。
「私は月くん自身が知らない貴方のことを、一緒にいる間にもうたくさん知りましたよ?」
誤魔化すようにすこしだけ茶化した声でいうと、月はムッと眉をひそめたあと、うすく嘲笑った。
「へえ?僕のいったい何を?」
「そうですねえ。…例えば、たおやかな見かけに反して剣の腕がたつとか。かなり気が強いとか」
「そんなことは僕の従者なら誰だって知ってる」
「大人しいお姫様かと思っていたら、頭がよくて回転もはやくて、そのかわりに毒舌気味で容赦ない。好奇心旺盛で知識に対し
貪欲で、勉強家で、さらには究極の負けず嫌い。他人に馬鹿にされたり侮られたりするのも絶対にガマンできませんよね」
「………それから?」
「やさしいけれど我儘で、正義感がつよくおもいこみはげしく。可哀想なほどに自己犠牲精神にとんだ、一人よがりな寂しいひと。
なに不自由なく育てられた不幸なこども」
「ずいぶんな言われようだな」
「でもとてもうつくしいひとです。外見も…こころも」
じっと。月の光を放つあかるい瞳を竜崎は見ている。竜崎のなにもかもを吸い込む漆黒の瞳を、月も、見ている。
高貴で。自尊心がたかく。他人に弱みをみせることを許さない孤独な眼。
「貴方はまだ咲いていない花のつぼみです。いつになったら綺麗に咲き誇りますか。それとも綻ぶこともなく、萎れますか」
「なにを言って…」
「自分で知る以上に貴方の疵はふかいですよ。そしてつよいけれど、脆い。
夢のなかでしか泣けないなんて、憐れだとはおもいませんか。
どうせ今まで気づいていなかった涙なら。
これからは私の腕のなかで、泣きなさい」
「───」
瞬間。
ひびが走るみたいに月の瞳が歪んだ。
唐突に。衣擦れのおとを響かせながら寝がえりをうって、背をむける。
「月くん」
「気分が悪い。もう寝るよ」
逃げるようにシーツにもぐりこんだ頑なな背中を、つつみこんで抱きすくめる。拒絶はされなかった。
もしかしたら今、泣いているのかもしれない。そうだといい。そう思いながら前にまわした手で月の掌を握り、竜崎は囁きつづける。
「月くんが好きです」
「………」
「どうぞ私を好きになって下さい」
信じられないというのであれば、信じさせてみせる。意地っ張りで難しくてさみしくて愛しい貴方に。かならず幸せな恋をさせる。
「………煎湯」
ポツリと。顔の見えない月の、ちいさな声。
「………はい?」
「あれ、オマエがつくったってきいた。凄いよく効いた」
「そうですか。そうですね。月くんの具合が良くなって本当に良かったです」
「すごいって、思った。なんでも出来るんだなって。竜崎のそういうところは…………好きだ」
「───」
「………僕のために、ありがとう」
たったそれだけだけれど、いま唯一伝えられる、精一杯のきもち。
胸がいたい。だけどつらくはない。
つぶやいて、そのまま目を閉じ動かなくなった月のヘイゼルの髪に、
竜崎はそっと想いをこめて、キスをおとした。

ひさしぶりにふたり寄り添いながら眠りにつく夜。体温と吐息が闇に蕩けた。