月が発熱した。
夜の国を出発してからおよそ30日を越え、その間に起きた様々な事象と環境の変化に、ついに身体のほうが先に根を
あげたらしい。
炎症による熱ではないので解熱薬を飲ませるわけにもいかない。横になってゆっくり休む以外に回復の手だてはないと
ワタリに諭され、シーツの波に沈んだ月の寝顔を竜崎はそっと、のぞきこんだ。
辛そうな表情。僅かに眉間にしわがよっている。ちいさく開いた唇からは浅い呼吸音がもれる。
暑いはずの部屋のなかで、寒さに縮こまるように身体を丸めているのは、発熱による悪寒を感じているからだろうか。
そろっと手をのばし前髪を梳いた。
月の瞼が開いた。
「さわるな」
「…起こしてすみません。が、目が覚めたならついでにこれを飲んで頂けますか」
手にしていた山吹色の煎湯を見せるとイヤそうに顔をゆがめた。
「いらない…」
「苦くありませんよ。飲めば気分が落ちついてよく眠れます。私もなんども飲んだことがありますから、大丈夫です」
胡乱気な表情のあと、仕方なくダルそうに上体を起こす月を手助けするため、背中に伸ばされた竜崎の腕が、瞬時に
叩き落とされる。
「さわるなって言ってるだろう。オマエに触られると、きもちがわるい」
「私が不愉快なのは申し訳ないですが、ワタリはいま別の仕事中です。ガマンして下さい」
言い放つとその間にもフラついている華奢な肢体を、強引に抱きこんで支えた。
月は身をかたくしたもののそれ以上の抵抗はせず、無言で渡された煎湯を飲み干す。
ふたたびシーツの上に横になると、細く息を吐いて目をとじた。全身がひどく重くて間接が痛く、つらい。今までは大して気に
ならなかった船が波に揺れる微かな振動にすら、胸がわるくなる。
色のない、憔悴した面をベッドに伏せた。そんな月を見下ろしながら竜崎はポツリと言った。
「私のせいですか?」
「………」
「私がそばにいると嫌ですか?こんなに具合を悪くするほど、私は月くんを追い詰めていましたか?」
うすく瞼をあけるといつもどおりの無表情のまま、背を丸めた男が突っ立っていた。
でも、数歩分。月が横たわるベッドから離れている距離に、なぜか男が立ちすくんでいる気配をかんじた。
ぼんやり、不機嫌におもう。
そんな顔するな。
まるで僕が意地悪をしているみたいじゃないか。
「ここ数日、月くんはずっと機嫌が悪かった。そしてついには体調まで崩した。なにか理由があるのですか?
私が貴方の傍にいたいと思うのは、つらいおもいをさせるためではありません。月くんに嫌われたくも、ありません」
面倒くさいな…具合のわるい相手を詰問したって、仕方ないだろうに。
そう思ったけれど、でも何か言わないと終わりそうにないので月は仕方なく口を開く。ちいさな声で言った。
「竜崎のことは…好きでも嫌いでもないよ…どうでもいいと思ってる」
喋っているあいだも目がまわって思考が上手くまとまらない。クラクラする。だから頭に浮かんだことをそのまま口にする。
月は竜崎のことをなにも知らない。きいても教えて貰えない。竜崎も本当に月のことを知ろうとはしていない。
ふたりの距離を縮めようとも思っていない。
お互い感情をはさむ余地のない相手だ。信用も信頼もできる筈もない。
今までも、これからも。
「どうでもいい…ですか」
「ああ。はじめの約束どおり僕はオマエの持ちものだから、好きにすればいいって、ずっと言ってる。
だけど…気持ちがないのに…優しくしようなんて考えるなよ…きもちがわるい…」
「私は月くんが好きですよ」
「お人形の僕がね」
竜崎の真っ黒なでっぱった目が見開かれた。
何かを言おうとするように口が開いて、なんの言葉も発せず、諦めたようにため息をついて背を向けると、竜崎は部屋を静かに
出ていった。
月も疲れたみたいに瞳を閉じる。
そして数時間後。
ふたたび目覚めたときには陽は沈み夜になっていて、部屋の中はちいさなランプのあかりに薄暗く、男のかわりに老人が、
月の枕元につきそっていた。
モソリと動いた茶色の髪に、穏やかな声がかかる。
「ご気分はいかがですか?」
「ん。…だいぶん良いです」
力の無い、か細い声に自分で子供みたいだと思いながらも、ここの所ずっと辛かった身体のダルさが軽くなっているのを感じて、
月はホッと息を吐いた。
汗をかいて咽喉が乾いていたので、ワタリが手渡してくれた煎湯をコクコクと一気に飲み干す。
昼間にも竜崎の手で飲まされたソレは。甘くも苦くもない不思議な清涼感をともなって、疲労した肉体に染みわたっていくようだった。
「効いているみたいですね。よかったです。その煎湯は竜崎自らが淹れたものです。鎮静作用のある薬草を煎じてつくったもの
ですから、何回か服用されればあとは自然に熱も下がって…」
「竜崎が?」
おどろいた月の声に、ワタリはいったん口をつぐんだあと、やはり穏やかに「はい」と答えた。
「月さまのために、竜崎がご自身で煎じました」
「竜崎って…そんなことにも詳しいんだ…」
「街医者ができる程度の知識はもっておりますよ。一艘の船と乗組員の命を預かる身です。なにかあった時には相応の対処が
できる人間でなければ務まりません。この煎湯もむかし、だれから教わった訳でもなく、竜崎が自分で作りあげました」
「へえ…」
おもわず素直に感心してしまう。
本が好きで、学ぶことが好きで、好奇心旺盛な月が、足元にもおよばないほどの経験をもつ男。
月の知らないことを何でも知っている。疑問にはよどみなく答えてくれる。
一緒にいるようになってからのほんの短い時間で、少しずつ、ひらけてきた新しい視野。それをもたらしてくれた竜崎の知識は。
竜崎のもつ力は。竜崎の世界は。
好きだ。
唐突におもい、ずっとそう感じていたことをワタリの話しをきいて改めて思い出した。
竜崎は月にとって憧れの存在。でも信用できない。そして何より、彼は月を認めていない。
「…ワタリさんて、ずっと竜崎と一緒にいるんですか?」
老人の細く優しい目が、月を見つめた。
「本当の名前とか年齢とか家族とか、出身国とか。今までどうしてきたとか。なんで海賊をやっているのかとか。
そういうのを全部知ってるんですか?」
「竜崎は月さまには話しませんか」
「きいてもぜんぜん教えてくれないです。べつにどうしても知りたいわけじゃないんだ。…でも信用されてないっていうか、
所詮その程度なんだなあって」
苦笑して。
どうしてこんな愚痴めいた話をしているのか。さらに苦笑した。
竜崎とおなじでワタリだって、信頼できる人間じゃない。月の味方なわけでもない。
でも不思議と喋ってしまいたかった。そうしても良い雰囲気を老人はもっていたし、ただ単に本当に愚痴りたかっただけかも
しれないが。
冴えない頭に浮かんだいろいろな感情に、ぼおっと飽和状態でシーツの上。天井の透かし彫りをながめながら横になっている
月の耳に、深い皺をきざんだ声が届いた。
「言葉ですべてがわかる訳でもないでしょうに」
「………え?」
「竜崎は、たしかに隠し事のおおい人間です。いくら月さま相手といえど、まだお話しできない事もあるかと思います。
しかし全てを話さないからといって、月さまを軽んじているという訳では、けっしてございません」
「…でも竜崎にとっての僕が、話していい人間じゃないってことも事実でしょう?…それに相手のことを何も知らないで、
どうやって信頼関係を築くんですか?」
「相手を大切におもうからこそ、秘密を守りとおす場合もございますよ。それに言葉は時として嘘をつきます。話した内容すべてが
真実とは限りません。
しかし一緒にいて、同じ時間を過ごすなかでご自分の目で見えてくること。それはまぎれもない真実だとはおもいませんか?」
「………」
ワタリの顔を見つめ返す月の瞳に、ひかりが反射した。
老人の手の中で、さきほどまで煎湯の入っていた硝子の器が、鈍くかがやく。
弱った肉体にすんなりと染みわたった、
月の身を案じた竜崎がつくったソレ。
つらかったからだもこころも。今はずいぶん楽になった。
「申し訳ありません。つまらないことを言いました。どうぞ気になさらずゆっくりお休み下さい」
丁寧にあたまを下げて、退室する老人の背中を見送りながら。
久しぶりに落ち着いた気分になっている自分に気がついて月はちいさく笑った。
───ワタリさんてああ見えてもやっぱり曲者だなあ。
ほんの短い会話のなかで、月を諌めることばの数々が胸にひびく。まああの竜崎の従者なのだ。当たり前なのかもしれないが。
ささくれだったこころが見事にいなされていた。それくらい、ワタリの台詞は月のなかで意味を持った。
それにしても…。竜崎とワタリのふたりの関係がいったいどんなモノなのか…。
今度はそんなことまで気になりだして、さらに疑問や興味がわいてくる。
どうせ、竜崎にたずねた所で答えはかえってこないのだろうけれど。でも。だけど。
つらつら考えているうちにきゅうに眠たくなってくる。多分さきほど飲んだ煎湯の効果だ。
フワフワと睡魔に誘われるまま、月はゆっくり瞼を閉じた。
やがて優しく訪れた眠りは、とても穏やかなものだった。