「かくれんぼ」
仔ネズミ月は由緒ただしき仔ネズミである。
どのくらい由緒ただしいかと言えば、月には父親である総一郎、母親である幸子、そして可愛いかわいい妹の粧裕と、
家族4匹なに不自由なく暮らしてきた裕福な仔ネズミであった。
ただしそれは小さなちいさなケージのなかで。
月たちは小さなちいさないきものであったので、暮らしていく分にはなに不自由なかったけれど。
仔ネズミ月は大層賢い仔ネズミである。どのくらい賢いかといえば、月たちが住むケージの外の世界は「夜神さんち」であり、
つまり月は「夜神(さんちの)月」であり、
月の大好物のコンソメチーズを毎日おなかいっぱい与えてくれるのは夜神さんちであり、
夜神さんちのケージのなかに居る限り、月はしあわせを確約されているということ。
その幸せを退屈だとおもうくらい月は賢い仔ネズミであった。
そしてなに不自由なく暮らしてきた裕福な仔ネズミであった。
さて。
その夜神さんちがある日お引越しをすることになったので、必然的に月の一家もお引越しである。
といっても月たちはケージごと運ばれるので何もする事はなかったのだが、
総一郎が髭を震わせながら「邪魔にならないよう、大人しくしてなさい」と威厳に溢れて言うので、月や粧裕はおが屑や
新聞紙がひかれた寝床のなかでモコモコ丸まっていた。
もともと月たちは夜行性だ。だから騒がしい周囲を気にも留めずウトウトうたた寝していた。
異変が起きた。
振動と、激しい衝撃。轟音。
丸まったままの月たち一家はコロコロコロリンとあっという間にケージの外に投げ出された。
一瞬、なにが起きたか分からなかった。
ハッと我にかえり月がキョロキョロあたりを見回す。総一郎も幸子も粧裕も、仰向けにひっくり返って柔らかなお腹を見せたまま、
ピクピクと痙攣している。みんな意識はしっかりある様で、ただあまりの驚愕に硬直しているのだ。
ああいう時に迂闊に声をかけたり手を出したりすると条件反射で思いきり噛みつかれる。
月は現状把握に努めた。
どうやらお引越しの最中にウッカリ業者がケージを取り落としたらしい。柵の蓋が開いて、月たちは外に放り出されたのだ。
大慌てで、プルプル震えているちいさな生き物を拾い上げようとした業者が、
軍手の上からものの見事に粧裕の鋭い牙で「ガブリッ」とやられ「ぎやー!」と悲鳴をあげるのを「あーあ…」と思いながら
眺めていた月は。
閃いた。
いや。フと魔がさした。
これは。これはチャンスじゃないか…?
夜神さんちのケージの中から、退屈な月の鼠生のなかから抜けだす鼠生最大にして最後の機会。
チャンスの神様は前髪しか生えていない不気味なオッサン!
月はとても賢い仔ネズミだったので、即断即決だった。サッと身を翻すとトテテテテッと駆けだした。
総一郎や幸子もつぎつぎ牙を剥いているらしい阿鼻叫喚の騒ぎのなかでは、誰も月の脱走に気づくことは出来なかった。
後ろを振りかえる事もなく走りつづけた。何処までも走り続けた。
月は賢いこどもだったが所謂ネズミだったので、脳の容量はちいさな身体の分、ちょっぴり少なめで。
疲れ果て、ハアハアと立ち止まった時には自分がどこに居るのかも分からなくなっていた。
迷子である。迷子の仔ネズミいっぴき。
しまった僕としたことが!屈辱!
いつの間にか鬱蒼としげる灌木の合間に紛れこんでいる。ソロリソロリと慎重に進むと、やがてひらけた視界に瀟洒な
佇まいの豪邸があらわれる。
月はちょっとビックリした。夜神さんちもそれなりに裕福なご家庭だったが、これは………
仔ネズミ月は由緒ただしき、なに不自由なく暮らしてきた裕福な仔ネズミである。
僕の新世界にふさわしい!
そう判断し、「ん」とコックリ頷くと、月はその館に向けてチョロチョロ歩きはじめた。
僕がこの家のペットになってやるよ!
建物まで辿りついて開いていたサンルームの窓からコッソリ忍びこむ。
ペットどころかそれでは泥棒とかわりないことには、プライドの高い月は気づいていない。
わりと堂々とトテトテ、館の主を探し廊下を進行して、暖かい陽のさしこむ部屋に行き着いて
ギョッ!
扉の影で月はふたたび硬直した。細長い尻尾がピンッと伸びた。
猫がいる!
猫は、月たち鼠種にとっては大敵である。
いまどき捕って喰うような野良猫は少なくなったものの、危険な存在であることに変わりない。
その黒猫はアンティークの椅子のうえ、怠惰に惰眠を貪っていた。といっても猫も本来、夜行性動物なので
昼寝をしていても罪はない。
椅子から垂れた箒みたいなバサバサの尻尾が、フワンフワンと不規則に揺れていて、フワワンと見ていた月も眠たくなった。
ヘニャ…とちいさな耳が垂れた。
ハッ!とした。
それ所じゃない。ここは夜神さんちの安全なケージの中ではないのだ。
そして目の前には天敵の猫がいるのだ。
逃げなきゃ!大丈夫僕ならできる!
ダッシュで駆けだすと同時に、背後で例の猫の起きあがる気配。よし計画通り!
………ぜんぜん計画通りじゃなかった………
あんな猫がいては、仔ネズミの月はこの館のペットになれないではないか。
月は容姿に自信がある。以前、飼主に連れられて夜神さんちに遊びにきた黒文鳥のリュークンにも
「ペットは器用じゃない器量だリュークン」
なんて嘯いてみたくらいだ。文鳥のリュークンは「ウホッ」と鳴いた。
だが実際、飼主の夜神さんちでは月はとても可愛がられていたのだ。
滑らかで柔らかな毛並みといい、クリクリした愛くるしい瞳といい、小さなちいさな温もりといい。
それなのに!オマエ邪魔なんだよ黒猫!必ず消してやる!
キイキイ憤慨していたらお腹が空いてきて、ダイニングと思わしき部屋に忍びこんだ。
なんで僕がこんなにコソコソ、泥棒みたいなマネを…今頃気がついた月である。
くそ!屈辱!
漁ってみた棚のなかにはドライフルーツしか置いてなくて。月のだいすきなコンソメチーズは影も形もなかった。
ボソボソした食感のソレにガッカリしながら少しだけ失敬する。
躾の行き届いた月はフルーツの入っていた箱の蓋もちゃんと閉めて、
ひとの気配にドキッと飛び上がり、すばやく物陰に隠れた。
ダイニングに入ってきたのは、キチンとした身なりの初老の男と例の黒猫。
育ちの良い月はいきなり見た目で初老の男には好感をもった。器量は大事である。
月はNOT面喰いにみせかけて意外と面喰いだ。
なんだか仲良くなれそうな気がする…。
そのままコッソリ様子を伺っていたら、どうやら黒猫はこれから食事だったらしい。
うやうやしく差し出された、それはそれは甘そうなケーキをモッシャモッシャと旨そうに食べている。
その姿は、彼がこの館の正統なペットであることを証明すると同時に、どうあっても月とは相容れない存在であることを証明
していた。
月は甘いモノはあまり得意ではない。コンソメチーズを一生 愛 す 。
何だか酷く哀しい気分になっていた。こんな風に隠れている自分に。こんな筈じゃなかった新世界に。
夜神さんちに、帰りたい………
夜神さんちでは月とおなじ、綺麗な薄茶の髪と瞳をもった綺麗な飼主が、いつだって優しく微笑みながら、月に欲しいだけ
コンソメチーズをくれて、月とたくさん遊んでくれていたのに…。
総一郎や、幸子や、粧裕のいる世界。
優しく幸せだった世界。
でももう戻れない世界。
ポロン…と仔ネズミのクリクリした茶色の瞳から、透明な雫が一粒、こぼれおちた。
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