夜神 月の癖はよく知っている。
なにかを思考しているとき、頬づえをついて口許に手をそえるその仕草。もうなんども目にしてきた。監視カメラ越しに、
大学での講義中に、そしていまも私のとなりで。
私も悪癖をいくつも持っている。一般的に行儀がわるいとされる座り方。つねに甘味をもとめる嗜好。爪をかむ癖。
そうやっていつもいつもいつも口内で何かをねぶっていないと落ち着かない男は、親の愛情に餓えた、情緒不安定な
マザコンなのだといつか女に言われたことがある。
とくに否定はしなかった。
私が家族の愛情。というものが不足した人間であるのは明白だったし、情緒不安定なマザコンがどうして責められなけ
ればならないのか、理解し難かったため。
ある程度の外界とのコミュニケーション能力さえあれば、私の仕事に「一般性」は必要ない。そう伝えると
「そういうことじゃないのよ。可哀想なひとね」と慈しむように女に頭を撫でられた。そんな記憶がある。
私の爪を噛む癖はなにかに集中し、推理に没頭するため。ではない。むしろ逆だ。
深慮に嵌り精神世界に堕ちていかないよう、指先を抉りときには血をながすことで、肉体の痛みをもってして現実世界
とのバランスを保っている。
だから、夜神 月の本当の癖を知ったとき。
彼もそうなのだろうとおもった。
「痛っ!」
なんの前触れもなくきゅうに。夜神 月にくちづけた。前触れはなかったが前々からしてみたいと考えていたことだ。
そして急にしてみたくなったのだ。
キスは、不快感や驚愕とはまた違う衝動を彼に与えたらしい。突き飛ばされたあとその顔をみると、わずかに秀麗な眉を
顰め口を押さえていた。
「痛かったですか?」
「………」
「血の味がしましたが」
「…流河…オマエ…いきなりフザけた真似をしたうえに、言うセリフがそれか」
冷静を装ってはいるものの内心、憤っているのがよくわかる。なんて可愛い子供だ。
まちがっても歓んではいない。
「どこか怪我でもされているのですか?口のなかを切っている?」
「おおきなお世話だよ。オマエの舌を噛み切ってやれば良かった」
「頬のあたりの感触が酷くザラついていました」
舌で舐めた感想を伝えると夜神 月は盛大に顔をゆがめた。だが私は探偵だ。
「夜神くん?」
「…しつこいな。口内炎になってるだけだ」
なるほど。口内炎か。口腔内の粘膜におきた炎症性疾患の総称。全身状態の低下などが主な原因。
そんなどうでもいいデータが頭をよぎった瞬間に、彼は「二度とするな」と言い捨てて歩み去っていた。
口内炎はべつにビタミン不足のデキモノだけとは限らない。自分の歯で傷つけたって、炎症はおこる。
そして彼の唾液は生々しい、甘いあまい血の味がした。
私は味覚障害者だ。
それから何度もなんども。
不意をつき時にはムリヤリ手足を押さえこんで、夜神 月の舌を味わった。彼の口のなかは常に血で潤っていた。
夜神 月も、私とのキスに慣れるにつれ、しだいに誤魔化すのが面倒になったようで、口内炎という言い訳は徐々に口に
しなくなっていった。
癖なのだろう。自分の歯で自分の口腔粘膜を噛み千切る、彼の悪癖。
とくに思考を巡らすときに、無意識にやっているらしい。頬づえと口許に手をあてる仕草は、どうやらその悪癖を隠すため
の癖らしい。
別段めずらしくも何ともない。
私は爪を噛み彼は口を噛む。身体の外と内の違いだけだ。
そうやって痛覚を利用しながら夜神 月も、肉体と神経の均衡を維持しているのだ。
おなじだ。
いいや。
ちがった。
私の考えが間違っていたことに私が気づいたのは深夜、捜査本部のホテルで、座っていたソファのうえに夜神 月を
力づくで組み敷いたそのとき。
顔に吐きかけられた唾液は、真紅だった。
血液がまじっているのではなく単なる鮮血だった。
喰いしばる歯を指でこじあける。なかは真っ赤。端から垂れた体液が私の指を彼の唇を白い首筋を、うつくしくあかくあかく、
染めあげる。
どうしてこんなに。常軌を逸している。
少なくはない流れる血液に空恐ろしくおもったとき、
ニコリと。
夜神 月は綺麗にきれいに、ほほえんだ。
「流河もやってるじゃないか」
いいやちがう。私はここまで自分を傷つけたりは、けしてしない。
「安心するよね」
夜神 月。
お前は。
自傷しその痛みで安堵を得る、それほどまでに不安定で鬱屈した子供。裕福で苦労をしらない純粋な子供。恵まれた
環境と秀でた頭脳と完璧な肉体を授けられた子供。残酷で幼稚で負けず嫌いで高い理想と退屈な日常と無力な自分に
挟まれ擦りきれたどこか壊れかけの
───可愛いかわいい、私の、キラ。
「もう、自分を傷つけるのはやめなさい、月くん」
覆いかぶさった夜神 月の頬をやさしく撫でる。
片目を眇めじっと睨みかえす彼に、
こころから愛情をこめて。
これからは。
私が、貴方を傷つけてあげます。
目が見開かれ引き結んでいた唇が緩んだ。逃さずにかぶりつき、苺よりも甘い汁をすする。
彼の身体を容赦なく貪りながら未矯正の鋭い犬歯を柔らかな口角につきたてると、
あらたな血を零し、クククッと夜神 月は、しあわせそうにわらった。