轟々と啼く風とうちよせ砕けちる波の音。
夜半から荒れはじめた外の様子も、堅牢な船内の私室までは届かない。
ただし、曇天のもと海を渡ってきた冷気だけは別モノらしい。不意に肌寒さに震えをかんじて、竜崎はパチリと目を開いた。
身にそなわった習性で、覚醒した瞬間、周囲の状況をさぐる。

灯を落とし、暗闇にしずんだ夜の世界。いつもなら硝子製の窓から差しこむ月明かりも、垂れこめる重い雲が覆い隠して
しまっているのだろう。コチ、コチ、コチ…と時計の刻む音が微かに聞こえてくる。

慣れた部屋の様子に竜崎は吐息をついた。モソリ…と身じろぎして、かたわらにピタリと寄りそう、心地よい素肌を改めて
腕に抱きなおすと、そこから暖を取るみたいに柔らかな絹糸の髪に鼻先をうずめる。

「…ん………」
規則正しかった呼吸がとぎれ、フ、と甘い息が洩れた。しまった。起こしてしまった。
「…竜、崎…?…眠れないのか…?」
「すみません月くん」
仄かに浮かびあがる肌理細かな頬にキスをおくる。
擽ったさを伴うソレに月は安心して、またスウッと睡魔に引きこまれかけて、

パチリと長い睫をひらいた。
ふたりして眠りの淵に落ちるまで、さんざん絡ませあい貪りあい、熱をわかちあった肌と肌を必死にくっつけ、
なにやらプルプルプルプルしている男の気配。

束の間、ボンヤリしていた月は、パシリパシリと瞬きするとムクリと起きあがった。…起きあがろうとした。
最近、二度目の赤ちゃん返り症状をみせている夫の両腕にガッチリ拘束されていて、叶わなかったが。
「どうしたんだ竜崎………こんなに震えているじゃないか!具合が悪いのか?もしかして熱でもあるのか?!」
常にない夫の様子に、后はにわか真剣になる。それでも潜めた声で問いかけながら素早く額や首筋をさぐり、一拍おいて
ホッと安堵のため息をついた。

「とりあえず…高熱がある訳じゃなさそうだけど…」
「べつに体調が悪いのではないと思いますが」
つとめて無表情に、しかし隈はついているけれども虹彩のないその両眼に、ひどく情けなさそうな色を浮かべると、
「ただ…さささささ寒い…です…」
「…は?」
「寒い…です…月くんは寒くないのですか…寒くないのですね…そうですよね貴方はこちらの出身ですものね…
私…昨夜あたりからもう寒くてさむくて駄目です…眠れません…」

これを底冷えというのですかね…歯の根が合いませんよまったく…などとそれなりに分厚く保温効果もある毛布にグルグル
くるまって、竜崎はブツブツ呟いている。

呆気にとられていた月はやがて、ああ。と納得した。
竜崎って、寒がりなんだな。
そう言いきってしまうのもどうだろう。一年中のほとんどが太陽の光に晒された熱帯国である陽の国出身の竜崎と。一年中の
ほとんどが月の光に照らされ氷と雪に閉ざされた夜の国出身の月とでは。

おなじ人間でも、もって生まれた体質にはそれこそ太陽と月ほどの違いがある。
具体的には汗腺や皮膚のちがいらしいが、かつて陽の国にむかう船内で月が暑さバテしたのと同じく、こんどは夜の国に
むかう航海の途中、竜崎が寒さ負けしそうになっていたとしてもまあ不思議ではない。
もとは世界に名を轟かす海賊の長、Lをつとめていた男としては、若干情けない話だが。

試しに毛布のなかに差しいれてみた指に、触れた竜崎の足先はほんとうに冷えきっていて、月はすこし心配になった。
「すぐに従者を呼んで毛布を増やしてもらうよ。北方の冷気を甘くみないほうがいい」
「こんな夜更けではワタリも休んでいますし、今晩はもういいです。
それより起こしてしまってすみませんが、どうせ目が覚めたなら月くんが暖めてください」
言い終わらないうちにガバッと圧し掛かられて、コラコラと月は笑顔でアッパーカットを喰らわせるが夫はめげない。
「馬鹿。僕は眠いんだよ。それに寝る前にも十分しただろう?」
「ぜんぜん足りません。やっと最近、解禁されて思う存分抱けるようになったというのに。
婚礼の儀を挙げてから五年目にして迎えた念願のハネムーンですよ?まったく、どれだけ忍耐と努力を積み重ねてきたことか」
「ハネムーンじゃない帰郷だ!仕方ないだろ!エラそうにするな!
それを言うならその過程の責任は、ほとんどオマエにあるんだからな!その辺ちゃんと自覚あるか?!」

「この五年間、こどもたちに貴方を取られっぱなしで、私の我慢は限界です」
「自分の子供に焼くなオマエ父親だろう!もっと自覚もてよ!いっしょに幼児化するな!」
言葉尻のわりにヒソヒソボソボソとした痴話喧嘩になっているのは、おなじ部屋に寝かしつけている二人のおさない子供の、
健やかな眠りを妨げない配慮からであった。
が。

「駄目だってば。ルナとキラが起きたら可哀想だろ」
「なら、声はあまり出さないようにしてくださいね」
「待て!分かったから!するから!ちょっとだけ待ってくれ」
「待てません」
「ちょ…竜崎!」
それ以上、文句を継がせないとばかり唇を塞ぐ。そうしておいて性急に下肢をまさぐると、数時間前の行為の残滓にいまだ
温くぬめる月の内部は蕩けていて。

これならば問題ないだろうと竜崎はすばやく怒張を押しあて、
「まっ…───あうっ!」
一息に貫いた。
「あっあああっ………くっ…ん」

背を撓らせ仰けぞった月が、ハッと慌てて手さぐりよせた毛布で口元をおさえる。
いちど動きを止めた竜崎と、暗がりのなか、子供たちの寝息に変化がないのを確かめてから欲情に潤む眼と眼をあわせて、
まぶたを閉じた。
「…うっ…ぁ…ん…っ」
再開したグラインドで大きく揺さぶられるたび、月の腰が、背が、肩が波打ち、ヘイゼルの髪がパサパサと乱れる。
突き上げてくるリズムにあわせ自分で蠢くことも、もうすっかり覚えた。この短くはない月日のあいだに。
男が肩に両脚を担ぎあげた。さらに結合が深まり、弱い部分を隅からすみまで、熟した内襞を何度もなんども抉られる。細い
足首がいくども宙で悶えるみたいに跳ねて、喘ぎを洩らさないよう、月は必死で毛布を噛みしめる。

伸びてきた荒れた指先がソレを奪い、かわりに唇と唇がふたたび重なった。舌を絡ませあい唾液と嬌声を呑みこみあい、
互いの背に腕をまわしキツく抱き締めあって、全身でひとつになって。

やがて、高みへ。
「─── っっ…っ………」
弾けた衝撃に痙攣し、カクリと弛緩した。男の背中に爪を立てていたましろい腕が、すべり落ちた
戒めのキスを解くと月の濡れた口元をペロリとひと舐めして、竜崎はソッと身を退く。
固く瞑られていた美しい双眸が、気だるげに見開かれた。
とたん。
「この馬鹿!」
バチン!
振り抜いた掌でけっこう強かに平手打ちされて、
夫はシーツのうえに転がった。
「もう!なんで!待てって言っただろう!オマエが寒いって事は、ルナやキラだって寒がっているかもしれないじゃないか!
どうして様子をみて毛布をかけてやる時間くらい、待てないんだ!あのこ達に何かあったらどうするつもりなんだ!」

………ふえええええん!うあああああん!
「───ホラみろ!泣き出しちゃったじゃないか!」
「…いえあの…泣き出したのは寒いからではなく、おそらくいまの月くんの怒鳴り声で…」
「もー竜崎は父親としての自覚が薄すぎる!ちょっとは反省しろ!」
つい先刻までのお熱い情事ムードはどこへやら。
プリプリ怒りつつ寒がりな男の毛布を無情に取りあげ、身体に巻きつけると、
月はベッドをおりてスタスタ夜泣きする子供たちのほうに向かってしまう。

その華奢な背中を呆然と見送るしかない竜崎は。なんのかんの言いつつ月くんだって最中は夢中だったじゃないですか…
冷たいです月くんあんまりですよ………

「…私はもちろん父親でもありますが、貴方の夫でもあるんですけどねえ…」
哀しそうに呟いて、ガシガシ爪を噛みながらゴロゴロゴロンとシーツを転がった。
もとは勇猛な海賊の長であり、いまは太陽の王という大国を統べる重責にある男の威厳は見る影もなかったが、
父親になりたての未熟な夫とは、どうにも我儘で寂しがり屋ないきものである。らしい。


陽の国で、ひとびとの盛大な祝福に包まれ、月と竜崎が婚礼の儀を挙げてからもう五年。

振り返ってみればあっという間に流れたその歳月に、陽の国は、王室は、新しい王と后は、二粒の珠玉を授かっていた。

ひとりめは王女ルナ。ふたりめは王子キラ。
月がルナを身篭ったのが婚礼の儀以前のことであるのは周知の事実だったのだが、第一子誕生後。
間を空けずキラの妊娠が発覚したときに竜崎は月に、あやうく寝室を別々にされかかり、大騒動に発展した………という
人騒がせな経緯がある。

さすがにソレは諌めたものの、瞬くうちに二児の父親となった竜崎は、長期にわたり並々ならぬ禁欲生活を強いられた。
まあある意味、自業自得でもあった。
そして太陽の王一家は、いま現在、陽の国を離れ一路、月の祖国である夜の国にむかって船を走らせている。
いつか皆で一緒に、夜の国に帰りましょう。
その約束を果たすために。
なにをカン違いしたのか私も一緒に行きたいなどと主張した、竜崎の兄である流河に、長期不在になる太陽の王代理を
ムリヤリ押しつけ、長は不在であるものの機能的にはさして遜色ないLの船に、密かに護衛をまかせ。

数隻の警護艇とともに、海のうえを移動する堅牢な城にもみえる陽の国船は、順調に航海を続けている。
ようは片路約八十日間をかけての后の里帰りと。それを口実にした、太陽の王念願のハネムーンなのであった。


「時期はずれの流氷?」
主のいる場所にはどこにでも付き従う、白髪の老人が告げた情報に、竜崎はカクリと首を傾げる。
それは無事、船が夜の国に近づき、あと数日で到着できる見込みとなったある夜。
「はい。運悪く二、三日前、夜の国に大量に流れ着いたとのことで、流氷が障害になり港への接岸が難しい状況であるとの
連絡が入りました」
竜崎は月を見やる。月もコクリと頷いた。
「たしかに漁師たちからそんな話を聞いた事があるよ。
数年に一度なんだけど、最北端にある大量の氷塊の一部が、夜の国に流れ着くんだ。そういう年は不思議と魚がよく獲れる
大漁になるから縁起は良いらしいけどね。かわりに氷のある期間は、港から船が出せなくなるって」

「なるほど」
太陽の王を正式に継ぐ以前は、海賊Lとして世界中の海を渡り歩いていた竜崎である。
しかし生憎、北方海域だけはあまり出向いた経験がなかった。いまの報告にもあるとおり極寒の北海は荒れやすく、下手を
すると船が遭難したり、氷に阻まれ身動き取れなくなる可能性が高い。
さらにそのリスクを負ってまで足を運ぶにしては、北の国々は貧しく、海賊としての稼ぎも少ない。

そんな理由から、Lのみならず世界中のならず者たちもこの閉ざされた海を敬遠している。よって実りの少ない国々には
代わりに、争いや略奪のない、平和な暮らしを保てるという自然界からの恩恵が与えられる。

「という事は、港近くでしばらく足止めですかね」
「ん…」
俯き、長い睫が白磁の美貌に影を落とすのを竜崎は内心、気遣わしげに観察していた。
せっかくここまで時間をかけてやってきたのである。竜崎としてはあと数日航海が延びたところで何ら問題はなかったが、
数日程度で済むかどうかもハッキリしないうえ、懐かしい故郷をまえにして逸る月のきもちもよく分かる。

果たしてわずかな逡巡のあと。
躊躇いながら、月は口をひらいた。
「上陸する方法は、無くはないんだ。港を迂回してなるべく氷の少ない海岸線から、流氷の間をすりぬけられるくらいの
ボートを使えば」

「しかし。それでは万一にも氷に押し潰されたり、転覆の危険だってあるでしょう」
「どうかな。もちろん危険はあるだろうけど。
でも夜の国の漁師たちはみんな、船が出せない期間もずっとそうして生活してきているからね」
時間の限られた里帰り。到着が遅れれば遅れるほど、祖国での滞在日数は減っていく。
「…わかりました」
不安そうなヘイゼルの瞳に、ガリガリ爪を噛んでいた竜崎は、やがて納得したように頷いた。
「ではこうしましょう。
私の大切な月くんや子供たちを、ほんの僅かな危険にも晒す訳にはいきません。が、それは夜の国の人々にとってもまったく
同じことだと思います。
よって、この辺りの海に詳しい夜の国の漁師たちに、出来るだけ詳細に事情を聞き、彼らが危険は少ないと判断すれば、
ボートでの上陸を検討してみましょう」

「…竜崎…ありがとう」
フワリと花が綻ぶみたいに微笑した月を手招いて、柳腰に腕をまわすと竜崎は悪戯っぽく囁いた。
「私、寒いのはキライですので、万万万が一にも氷の浮いた海に落っこちるのはイヤですから。
慎重に慎重をかさね検討します」

「じゃあいっそオマエは留守番してるか?」
「月くんに置いていかれるくらいなら、泳いででも付いて行きます」
「凍死するよ」
コツンと額をくっつけてクスクス笑いあって。

出会った当初とまるで変わりない過保護な夫に、月は感謝のきもちと共に、甘やかな口づけを贈った。



ルナはもうじき三歳になる。おしゃべりとイタズラに磨きのかかってくる年頃だ。
キラはようやく一歳をすぎたばかりで、ヨチヨチ歩きは覚束ないが、ハイハイをするとこれが意外なスピードで這い回る。

最初は慣れなかった育児もずいぶん板についてきた。ある程度は余裕も生まれてきたが、しかしまだまだ子供たちからは
目が離せない月と竜崎の日常だ。

「パーパー」
「はい何でしょうルナ」
抱っこしてやるとハシバミ色の髪と瞳をもつルナは、満足げにキャッキャと笑った。対して月に抱かれているキラは、
どちらかといえば漆黒に近い髪と瞳。

色素のちがいはそれぞれ両親から受け継いだモノだろう。いまのところ、子供たちは月の方によく似ているようで、ふたり
とも可愛らしい人形みたいな繊細な顔立ちをしている。

まだ産まれたての赤ん坊だった時分。そのことを確認した竜崎は、月くんに似ていてくれて良かったです…と
胸を撫でおろしていた。

その隣では兄である流河も、オマエに似てなくて良かった…と同様に胸を撫でおろしていた。
「パーパーパー」
「いたたた痛いですよルナ。引っぱらないで。パパの髪を抜かないでください」
「やーあー」
「ちゃんと抱っこしてやれよ竜崎。
どうせあと十年もすれば『パパはこっち来ないで!』て近寄らせても貰えなくなるんだから」

「…イヤなこと言わないでください月くん…」
陽の国王室では代々、直系の子孫、あるいは王の跡目を継ぐ可能性のあるこどもは、専属の乳母や養育係りの人間が育てる
システムになっていた。竜崎にとってのワタリがそれであり、竜崎がほとんど両親の愛情を感じられない環境で、
個人としての名前すら与えられず、ひたすら王室の、国民の、国のために育てられた寂しい子供だった如くに。

しかし、月を娶り自身が王の座についてから、竜崎は悪しき慣習を改めた。
悪しき慣習、と言い捨てるのも語弊があるが、すくなくとも自分たちの子供には生まれたときから名前をつけ、月と竜崎自身
の手で育てることに決めた。

ルナ。キラ。
月のように星のように美しくひかり輝く幸福な人生を送って欲しい、と。
王室の側近達はひとまず、そんな王と后を寛容に見守っている。彼らにとっての太陽の王とは、陽の国の安泰を守る者。
つまり国と国民が平穏無事に日々を過ごせるのであれば、過去のしがらみやしきたりを多少破ったところで、誰もなにも
口出ししない。

その専制国家とはおもえない、臨機応変なアバウトさが、ならず者の血を脈々と受けつぐ彼ら一族の、強きいきものとしての
本質を表しているのかもしれなかった。

「ホラ着替えるよルナ。パパで遊ぶのはその位にして」
「はああーい」
「パパ、と、でしょう月くん」
これから、夜の国に上陸するため小型ボートに乗りうつる。月や竜崎もさることながら幼児であるルナとキラには、
防寒防水の完全防備をさせなければならない。

季節風による時化が治まっている今日ならば、安全に海を渡ることが可能だとつい先ほど漁師たちから連絡を受けたばかりだ。
準備してあった衣を手早く身につけ、キラはおくるみごとシッカリ月が身体に結わえ、ルナのちいさな手は竜崎が握り。

陽の国船から波間に浮かぶ方舟へ。漁師たちの手助けを借りて、注意深くソロソロと移動した。
だからそれは、安全を確信した夜の国の漁師たちの、判断がまちがっていたという訳ではない。
月や竜崎たちの用心が足りなかった訳でも、けしてない。
そもそも子供というモノは大人の予想もしない動きをする未知のいきものであり、
さらに、運も悪かった。
「ルナ!」
ユラユラ形を変える群青の水面に惹かれたのか、それとも小魚でも跳ねたのか。
ずっと同じ船内に閉じこめられていた幼い王女は、乗り移ったボートのうえで物珍しげにしきりとキョロキョロあたりを
伺っていたが、

急に船べりに飛びつく仕草をした。
ギョッと腰がうく。

「あぶない!」
竜崎はルナの掌を離していなかった。咄嗟に強く引きよせる。
そのとき。
不意うちの突風が、大きくボートを揺らした。
そこからは月の目の前で、まるでスローモーションみたいに。
船が傾ぐと同時に、腕を引かれたルナが竜崎の胸に飛びこんで親子ふたりいっしょに体勢を崩す。ガタン!とモノとモノが
ぶつかりあう鈍い騒音が耳をつく。

たたらを踏んだ男の頭は、瞬時に冷静な判断を下していた。
このまま、落ちる。

胸にかかえた柔らかい存在を突き飛ばした。ルナは月が抱きとめた。
反動で男のすがたが海に消え、
砕けちる波音。


「りゅ───竜崎!」


一拍おいて、悲鳴があがる。
「落ちたぞ!」
「おおおい大変だ!海にひとが落ちたぞおおお!」
叫びざま、数人の若い漁師たちが波に飛びこむ。大騒乱になった。
「!いけません月さま!」
月がルナとキラを側にいた従者に押しつける。年老いた漁師があわてて制止してくるのに構わず、上着を脱ぎすて
船べりを越えようとした瞬間、華奢な肢体をワタリが拘束する。

「離してくれ!竜崎が!」
「落ちついてください」
「慣れた者でなければ、この冷たい海水にはとても耐えられません!ショックで死んでしまいます!」
「だったらなおさら竜崎が!竜崎!竜崎!りゅうざ…!」
「はい」
アッサリかえった返事。
全員が固まった。
すこし離れた波間に、プカリと海坊主みたいに男の顔が浮かぶ。スルスルスルと魚の如くボートに辿りついた。
「りゅ」
「お忘れですか月くん。私、Lだった男ですよ?
たしかに寒さには弱いですが泳ぎは得意ですし、海はかつての棲処ですし。この程度のこと、なんでもありません」
至って淡々と、普段と変わらない口調。
しかし実はかなり無理をしていることなど、その語尾の震えを聞かなくても、誰にでも分かる事実だった。いくら海賊として
大海原の脅威は経験していたとしても、流氷の浮かぶ厳寒の黒海はまったく別モノのはずだ。

けれどこの男はLであった男。
殺したって死にはしない。死んでもらっては、困る。
これからも太陽の王として国を率い、ひとりの夫として父親として、月を子供たちを守るために。
「私、大丈夫です。信用してください月くん」
「………そういう割には、顔はまっしろで唇は紫だけどな」
「そそうですね…ぶぶぶっちゃけ北海をなななな舐めてました…
なななななんだか心臓増麻痺でしししししし死にそうですすすすすすす」

「だったら無駄に喋ってないでさっさと船に上がれ!本当に馬鹿なのかオマエ!」
おそらくは冷たさに手足が痺れ、自力ではソレが叶わないのだろう。
そのままプクプク沈みかけた竜崎を大慌てで漁師たちが引き上げて、結局、大事なきを得ることが出来た。
バタバタと陽の国船に引きかえし、ガンガンに暖められた部屋のなか、毛布で何重にも簀巻きにされて、
チビリチビリ熱いブランデー入りの紅茶を舐めていた男は、

「パーパ」
まだ事態は理解していない筈だが、でももしかしたら賢い彼女なりの、ごめんなさいありがとうの意味だったのかもしれない。
愛する娘からのキスを、血色の悪い頬にチュッとうけ、ニンマリ変な顔で笑う夫を月は愛おしげに見つめた。


その数日後。
変化した潮のながれに流氷は港から移動しはじめる。陽の国船は存外はやく、夜の国への接岸を果たした。
夜明けまえの朧な月明かりのした、もう二度とは会えない覚悟で故郷を去っていった彼のひとの、数年ぶりにみる幸せそうな
笑顔。

夜の国王夜神も、その妻も、妹も、従者たちも国民たちも。
みな感極まった涙がしばし止まらず、彼らに微笑みかける月の瞳からも、大粒の滴がこぼれおちた。
陽の国ほど盛大ではないけれど、心のこもった歓迎のセレモニー。初めて対面した太陽の王の、思いがけない若さと
風変わりさに、戸惑う父親の夜神を苦笑しつつもフォローする。

その場の全員が見守るなか。固く交わされた国王同士の友好の握手。
それこそが祖国を旅立つときに、月がなにより望んだ願い。
生まれてきたのはこの国のため。愛され大切に育てられ、やがて見知らぬ誰かのモノとなり、引き換えに国を国民を
守ってもらう
大切なひとたちを守る為に、そのためだけに月はずっと生きてきた。
けれど竜崎と出会い、自由を知り、愛し愛されることの意味を知り。

いま誰しもが笑顔で、しあわせでいられる。
ありがとう。
心のうちで噛みしめた言葉が、背中を丸めてかたわらに立つ夫に届いたのかどうか。
肩を抱かれ降ってきた優しい口づけに、静かに瞳を閉じた。
でも目をあけてみたら視界のすみで、父親の夜神が愕然とショックを受けた顔をしていて、おもわず吹きだしてしまった。
妹の粧裕には近隣国から婿入りのめでたい話が出ているという。喜ぶ月にずいぶん大人びた妹は、
「ところでお兄ちゃん。ミサさんはどうしたの?」
尋ねてきたので、月に付いて陽の国にわたったミサは、マツダという男と一緒になったこと。
最近子供が生まれたばかりだったので、今回の帰国は叶わなかったことを伝えた。

「ミサが粧裕にもよろしくって言ってたよ。
あと、粧裕もがんばれだってさ」
「えっそ、そんなの、がんばらないもん!」
ルナは最初、知らない大人たちに囲まれ、モジモジと月のドレスの裾に隠れたまま馴染もうとしなかったが、
少しすると元気に粧裕や祖母の幸子に甘えだした。

それでも子供は比較的男性が苦手なので、なかなか夜神だけには近寄らず、諦めた夜神がこんどはキラを抱こうとしたら
華々しく泣かれてしまい、祖父になったばかりの夜の国王は再度はげしくショックを受けている。

懐かしい顔と新しい家族が揃った王室は賑やかに和やかに、語る言葉も笑いも尽きず、
シンシンと冷えこむ夜半を過ぎても暖かなオレンジ色の灯火に照らされていた。



陽の国への帰路につく前日。
雪景色をみせたいという月の希望で、竜崎は原野に降りたった。
何処までもどこまでも広がるまっしろな世界。透明で澄んだ冷気は、キラキラと不思議な煌きを帯びている。
「寒い?大丈夫か?」
羽毛を仕込んだ毛皮つきの上着に身をつつみ、グローブやらブーツやらで手の指から足の爪先まで徹底して
防寒した男が、鼻先をまっかに染めてプルプルしているのを見て月はおかしそうに笑う。

「ギブアップ?やっぱり帰る?」
「大丈夫です! …が、寒いです…月くんはよく平気ですね…」
「そりゃ生まれたときから慣れてるもの。ホラみて。あの子も大丈夫みたいだね」
一緒に連れてきたルナは、初めて触れる大雪に大興奮してキャッキャキャッキャと駆け回っていた。たまに足をもつらせ
ポテッと転んでいるが、積もった新雪がクッション代わりになるのであまり心配はいらない。

キラはまだ小さすぎるのでお留守番。次にこの国に帰ってくる時は、あの子にもこの雪で遊ばせてやりたい───
竜崎に比べれば断然軽装な月は、懐かしそうに感慨ぶかそうに瞳を眇め、遠く彼方をみつめている。
その秀麗な横顔を、竜崎も見つめている。
この程度の降雪では、夜の国ではとても吹雪とは呼べないらしい。降るというより舞うと表現した方がシックリくる
粉雪は、ルナととてもよく似ていて、子供の無邪気さでヒラヒラヒラヒラ白い妖精たちが遊んでいるみたいに。
キラキラキラキラ魔法を振りまきながら。

魔法はヘイゼルの髪と瞳を飾る輝きになり、今まで竜崎が贈ってきたどんな宝石よりも、うつくしい。
まるで奇跡。
「綺麗ですね」
「だろ?」
嬉しそうに振りかえった美貌に笑いかけると、ちょっと呆れた表情をされた。
「景色がね?」
「いえ貴方が」
「…もういいよ」
ヤレヤレとため息をついて雪まみれになっているルナをとっ捕まえると、月は微笑んで言った。
「限界だろ?帰って温かいスープでも飲む?」
「ココアを」
「はいはい」
「この光景を月くんと一緒に見ることが出来て、私はとても幸せです」
いつかオマエに見せたい。オレンジ色の松明。優しい月明かり。広大な雪原野。暗闇に煌き、ふりそそぐダイヤモンドダスト
うつくしい私たちの夜の国。懐かしい故郷。
「素晴らしいと、思うだろ」
「はい」
「ん。…それなら、よかった」
自分が大切におもい愛する人たちを、風景を、祖国を、どうしても見せたかったから。
同じ様に感じてもらえたらと思っていたから。

竜崎の生まれた熱帯の陽の国。鮮やかに咲く花も、吹く風も、白亜の王宮も、朗らかで逞しい陽の国のひとびとも、
月がこころから愛しているように。

互いが互いのすべてを、愛しあえたらいい。
そうすれば懐かしみ還るべき優しい故郷は、ふたつに増えるのだ。
「寒いのダメなのに、悪かったな」
「そんな事はないです。またこの景色を見に、一緒に来ましょうね」
「途中で海に落ちても?」
「月くんとルナとキラの為なら、何万回だって北海にも飛び込んでみせますよ」
だから父親としての自覚が薄いなんて言わないでください。
クククッと小鳥みたいに咽喉で笑うと、月は竜崎のまっかな鼻先を啄ばんだ。
さんざん遊びまわったルナは、雪を払って毛布にくるまれたとたん、あっという間にウトウト眠りかけている。
幼い寝顔を横目でたしかめて、誘い、唇をかさねる。
雪の妖精が逃げだすような情熱的なキスを。
「父親もいいけど。オマエは僕の夫でもあったよな」
「当然です。三人目、つくりましょうか」
ニンマリ変な顔で笑ってみせると腕のなかの愛しいひとは、出会った当初とまるで変わりない恥じらいに、
グーの拳を繰りだすのだった。



だって5年目の帰郷は、ハネムーンも兼ねているのだから。
近々生まれてくるだろう大切ないのちも、祝福され、愛され、幸せになれますように。