「ハラハラ」

いつでもキチンとスーツを着こみ、白髪を丁寧に梳き、身なりをととのえた初老の男。その名はワタリ。
イッツ・ダンディズム。
世界的名探偵である現在の主に、長きに渡り仕え、公私ともに彼の影となり手足となり
その功績を支えてきた男の素性もまた、名探偵同様闇に包まれナゾに充ちたモノである。
つねに微笑みを絶やさず冷静沈着。温和な瞳の奥には悟りの境地。色即是空空即是色。
判断力・行動力ともに的確かつ迅速に、主の信頼もゆるぎなく頼れる男。それがワタリ。
イエス。ヒズ・パーフェクト。
そのワタリが。
近頃、いつになくハラハラと落ち着きない日々を過ごしていた。
原因は他でもない。ワタリの主が妙に可愛がっているペットの黒猫と、そのペットのペットである仔ネズミの関係に
ついてであった。
先日突然、黒猫竜崎が口に咥えてもってきた仔ネズミ月は、受けとったワタリの両掌のなかにスッポリ収まるくらい、
まだ幼くちいさく。
とても野鼠とはおもえない綺麗な柔らかい薄茶色の毛並みと、クルクルよく動くつぶらな瞳。
(主にコンソメチーズ関連で)嬉しいときも哀しいときも感情表現豊かな、フリフリチラチラ揺れる細長いしっぽ。
おなじくピクピク震えるちっちゃな耳。
じーっと無心に見あげてくる澄んだまなざし。
いたいけな小動物。の、しかも子供。
かわいい………。
───いったいどこのお宅から浚って来たのですか竜崎いいい───!!
と咄嗟にワタリは黒猫に向けて絶叫しそうになったのだが彼の長い人生経験がそれを押しとどめた。
いやいやいや。激情にかられ叫んではならない。取り乱してはならない。
しかしけして竜崎を信用している訳でもない。
もし本当に浚って来たのだとしたら、余計隠密に慎重にコトを運ばなければならない…。
だがそれはワタリの杞憂だったようで。
仔ネズミ月は、どうやら本当に自らこの館に住み着いていたらしい野鼠の様子で、
しかもその仔細はなにやら訳アリみたいだったが、ワタリは黙って月を館に受けいれた。
どうせすでに竜崎という、大変手間のかかる上にクソ可愛くもないペットが一匹いるのだ。
さらにもう一匹、ちんまいのが増えたところでワタリの苦労に大して変わりはない。
…ちがった。ワタリは判断を誤った。
パーフェクトダンディ・ワタリとした事が。
月は。仔ネズミ月は大層かわいらしく賢い仔ネズミだった。そして大変良くワタリに懐いてしまった。
おそらくワタリを「コンソメチーズのひと」と認識したのだろう。ワタリの姿を見かけると、どこにいてもスッ飛んで駆けつける。
トテテテテテッ…と遠くから走ってくる一生懸命ないきもののその姿。
いったい誰が心を奪われずにいられよう…。
月はけしてプロポーションも悪い方でなかったが、なにぶん鼠なため、短い手足をそれこそ必死で動かし足元までやってくると、
今度はヨイショヨイショとワタリのスーツの裾からよじ登ってくるのだ。
あまりにも健気な小動物の仕草に、老いた皺ぶかい眦から涙がこぼれそうになる…。
毎食毎回クソ甘い大量のケーキを前に、専用のランチョンマットのうえで尊大に鼻を鳴らすどこかの黒猫とは大違い。
仔ネズミの輝く薄茶色の瞳は真剣そのもの。
すべてはコンソメチーズのために。
よく考えると単に食い意地が汚いだけなのだったが、(コンソメチーズ目当てに)懐いてくる月に、既にすっかり絆されて
しまったワタリは月を孫のごとくに可愛がり、
余計な心労を増やす結果となった。ワタリは苦労人でもあった。

とにかく月はちいさいのである。
仔ネズミなのだから仕方がないのかもしれないが、そして子供らしく想定範囲外の行動を取る時がある。
ある朝。
ダイニングで毎朝の支度を整えていたワタリは、古い洋館のため屋内でも履かざるをえない革靴の下に
ムニッ
ヘンな感触を覚え、白眉を顰めた。
ソッと片足をあげてみた。
…月がペショ…と潰されていた…。
───ラララララライトさまあああ───!!
ン十年ぶりに思いきり取り乱したワタリである。動揺しながらも行動は迅速に的確に、
パシパシパシパシパシパシッ!
と拾いあげたちいさいもののペッシャンコになった造詣を整えるが如く、けっこう容赦ない張り手をアチコチ加える。
粘土製じゃあるまいしそれで蘇生した訳でもない筈だが、月はパチッと目を開いた。
呆然としたあとパチパチパチッと瞬きし、それからウルンッ…とそのつぶらな瞳が潤んだ。
だいすきな(コンソメチーズをくれる)ワタリを発見して、尻尾をふりふりダッシュで朝の挨拶に訪れた月に、気づけなかった
ワタリにも確かに落ち度はあるのだろうが、
握りこぶしより小さいサイズが床の上をしかも足元をチョロチョロしていたら、誰だって踏んづける可能性は高い。
パーフェクトダンディとして誉れたかい男。ワタリ。
しかし低頭平身して月に謝りたおした。
…ワタリさん…ひどいや…
月のウルウルした両目が、裏切られた子供の切なさでワタリを責めていたからである。
あああ申し訳ありませんでした月さま!このワタリ一生涯の不覚です!
お赦しくださいませどうかそんな純粋な哀しい瞳でこの爺やを責めないで下さいませ!
コショコショコショ、と土下座したつむじをグルーミングする気配があった。
月であった。
…ん…もういいや…おなかすいたし…コンソメチーズくれるワタリさん…だいすき。
月さま!ワタリも月さまが大好きで御座いますよ!
またある日。
黒猫と仔ネズミが一緒に愛用のアンティーク椅子のうえで昼寝をしている姿を見かけた。
蹲った竜崎の顔に寄り添うみたいにして眠る月の様子は、微笑みを誘うもので、ワタリも穏やかな心持ちでいたのだが、
突然。竜崎が
ふんぐあー
とやった。欠伸だ。そのくらいわかっている。
しかしワタリはビビッた。
一瞬、黒猫が仔ネズミを丸呑みするかと思った。
目を覚ましていた月も硬直する。
喰 わ れ る … !
つぎの瞬間。ワタリの主である名探偵が可愛がっているペットの黒猫は、ワタリの手によってものの見事に壁に向かって
投げ飛ばされていた。
ワタリさん!
月さま!
ヒシッと抱き合うひとりと一匹。
クルンと一回転してちゃんと激突をまぬがれた名探偵猫は、
…ワタリ…ちょっとあんまりじゃないですか…私だってこの館の正統なペットなんですよ…?
グリュリュリュルル…と低く愚痴ってみるが聞いちゃいない。
それ以来ワタリは、万々が一、竜崎が猫の本能のままソノ気になって月を食べてしまわないか、また余計な気がかりを
抱えこんだのだが、
しばらくするとまたまた今度は別の心配事が頭を擡げてきた。
それとなく見張っていると、あまりにも可愛がり過ぎているのである。
竜崎が、月を。
猫が鼠を、ペットがペットとしてでなく、まるで恋人に対するソレのように。
ワタリは青ざめた。
…竜崎はたしか…去勢手術はしていない筈…
………いけません竜崎…まだ幼くちいさな月さまにそのような無体を…月さまが壊れてしまいます………!
そういう問題じゃない。突っ込みどころが多すぎて困る。
竜崎と月が仲良くしているのは望ましいことだが、仲が良すぎるのも、困ります竜崎!
わざわざ月さまがチーズを召し上がるたびにお顔を舐めてさしあげる必要は無いのですよ!
月さまも嬉しそうに舐められてないで少しは抵抗してえええ!!

とにかく毎日朝晩。
月が館に来てからというもの、ハラハラしっぱなしで気の休まる暇のないワタリであった。
まあ程よい緊張はボケ予防にも役立つし。
いつまでもパーフェクト・ダンディでいて欲しい苦労人。
それが、ワタリ。

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