夜神 月くんは、幼いころから賢く素直でまっすぐな性格をした、大層かわいらしい子供でした。
まだ月くんが小さいちいさい頃、公園の滑り台からウッカリ転がり落ちてしまい
膝小僧に赤い擦りキズをつくったとき、
お母さんの幸子は、半ベソの月くんのケガに掌をあてて、それから
「痛いのいたいの飛んでいけー」
と言いました。
幸子お母さんの手は温かくてホンワリしていて、言葉と一緒に「痛いの」が本当に飛んでいく気がして
(実際は気がしただけですが)
月くんはビックリ!しました。お母さんってスゴイ!と思いました。
なのでそれからというもの、月くんは自分でもお腹が痛いとき、お熱があるとき、お医者様に注射を打たれたとき、
いつでもちっちゃな掌を「痛いの」にあてて、
「飛んでいけー」とおまじないをするようになりました。
小さいちいさい月くんがほんのちょっぴり大きくなって、小さいちいさい妹の粧祐ちゃんが生まれてからも、
今度はお兄ちゃんになった月くんは粧祐ちゃんの為に
「痛いのいたいの飛んでいけー」
魔法をかけてあげていました。
一度、粧祐ちゃんが公園の滑り台からウッカリ転がり落ちてしまい
膝小僧に赤い擦りキズをつくったとき、
ワンワン泣き叫ぶ粧祐ちゃんのケガに、月くんが掌をあてて例のおまじないをかけると
「おにいちゃんってすごいね!」
ピタリと泣き止んだ粧祐ちゃんはキラキラ瞳を輝かせて言いました。
月くんも「僕ってすごい!」と思いました。
そんな子供たちの様子をお母さんの幸子とお父さんの総一郎は、ニコニコ微笑みながら二人揃って
見守っているのでした。
でも月くんの掌の魔法は、真実すごかったのです。
なぜなら。
月くんのおうちにはペットが一匹いました。
小さいちいさい月くんが公園に遊びに行ったとき、どこからともなくフラリと現れて、
お母さんの幸子がシッシッと追い払っても月くんの周りをウロウロし、家にまで付いてきて、
結局、保健所に連れて行くのが忍びなかった夜神家の正式なペットの座に居座った
ボサボサの黒い毛をした目つきの悪い雑種犬でした。
黒犬は月くんにとてもよく懐いたので、月くんも「エル」と名前をつけて可愛がりました。名前に意味はありません。
そのエルが、月くんと粧祐ちゃんを庇って交通事故に遭ったのは、月くんが小学校の運動会でリレーのアンカーを務め、
見事一等になった日の夕方でした。
夕暮れの中、おうちに帰る途中、手を繋いで歩道を歩いていた月くんと粧祐ちゃん目掛けて
暴走した車が突っこんできたのです。
突然の事態に、お母さんの幸子とお父さんの総一郎は、凍りつくだけでした。
ドン!
鈍い音がして、月くんと粧祐ちゃんは道に転がりました。
月くんは目をパチパチし、粧祐ちゃんはすぐに泣き出しました。月くんは一体何が起こったんだろうと
不思議に思いました。
たちまち大騒ぎになりました。お母さんの幸子やお父さんの総一郎や大人たちが駆け寄ってきて、口々に叫んでいます。
ソロソロ起き上がった月くんは、目を大きくおおきく見開きました。
壁に激突し停車した車のすぐ側の道路に、黒い塊が倒れていたのです。
エルでした。
全速力で走ってきたエルは、月くんと粧祐ちゃんに体当たりし、代わりに車に轢かれたのです。
夜神家の庭に繋がれていた筈のエルが、どうしてその時、その場に来られたのか、
大人達が後から考えても誰にも分からない事でした。
そんなこと、分からなくても良いのです。
確かなのは、月くんはエルが、エルは月くんが大好きだったという事。
ジワジワとアスファルトにエルの赤い血が広がっていきました。ソレをジッと見ていた月くんは、初めて大声で
泣き出しました。
月くんは強い子で、お兄ちゃんだから、普段は絶対に泣かないのに。
すぐにエルは病院に運ばれました。動物の病院の動物のお医者様は、哀しそうな顔をして
「たぶんダメでしょう」と告げました。
毛布に包んでエルをおうちに連れて帰り、月くんはずっと、ずっとずっとずっと、エルの側について
エルの黒い毛を撫で続けました。
小さな手で、苦しそうに上下するボサボサの毛並みを撫でながら、
痛いのいたいの飛んでいけ。痛いのいたいの飛んでいけ。
繰り返しくりかえしおまじないを唱え続け、掌から月くんの力がエルに伝わりますように。エルが元気になりますように。
神様にお願いし続けました。
すると。何と奇跡的にエルの命は助かったのです!
事故の翌日、エルは目つきの悪い瞳を細くあけて、ペロリと月くんの頬を舐めました。
一週間後には、ヨロヨロヨタヨタ覚束ないながらも月くんの後を付いて歩きはじめました。
後遺症で後ろ足をびっこひきつつ、エルはみるみる元気になりました。
月くんはまたちょっと泣きました。粧祐ちゃんも泣きました。
子供たちの涙を、エルは嬉しそうにペロペロ舐めました。
エルの頭を撫でる月くんの薄茶の頭を、お父さんの総一郎の大きな掌が、温かく優しく撫でました。
「ライト。良かったな。よく頑張ったな。エライな」
「おにいちゃんってすごいね!」
エライのもスゴイのも、本当はエルの方なのです。月くんには分かっています。
だけど月くんは思いました。
もし。もしも月くんの掌の魔法が、万にひとつの幸運を掴み、エルが元気になってくれたのだとしたら………
「お父さん!僕、動物のお医者さんになる!」
いきなりの決意表明です。月くんはまっすぐな子です。
総一郎はすこし驚きました。月くんの薄茶の瞳はキラキラ輝いて、真剣でした。
月くんのお父さんの総一郎は立派な警察官で、月くんはお父さんを尊敬していて、自分も将来は警察官になりたいと
日ごろから言っていたのでしたが、
「…そうか。刑事も医者も、困った人を救い、世の中に役立つ人間であることに変わりない。
ライトは一所懸命勉強して、人の命を助ける、立派な医者になるんだぞ」
「うんお父さん!僕、頑張るよ!」
力強い正義の絆で結ばれた父子は、そのとき固い約束を交わしたのでした。
傍らではカクリと小首を傾けて、エルが無言で(当たり前ですが)ソレを見守りました。
月くんが将来なりたい人物は  動  物  の  お医者様だったのですが
そのへん、親子間に微妙に齟齬が生まれていると、エルが気づいていたのかどうか。
たとえ気づいていたとしても、今度ばかりは月くんが大好きなエルにも
どうしようもなかったので。


月くんは賢く素直で大変優秀な青年に成長しました。ついでに人当たりも良く見た目も完璧で
すべてにおいてパーフェクトないわゆる優等生でした。
勉強の成績は全国模試トップ、高校三年生になって、日本大学最高峰の東応大学を受験したいと希望すると、
皆がウンウン頷きました。
「夜神は東大の医学部希望か。さすがだな〜」
アレ?と月くんはこの頃やっと、周囲との擦れ違いに気づき始めました。
…僕が進学したいのは獣医学過程…農学部…なんだけど…な…
でも、ちょっと言い出しにくい雰囲気でした。月くんは天然ながら空気の読める子でした。
もちろん獣医学もとても難しく、大変な勉強です。しかし、将来的には世界に誇る日本の頭脳になるかもしれない
優れた才能は、逆に、月くん本人の希望どおりには物事を運ばせません。
夜神家の夜の食卓で、改めて親子向きなおって、家族会議が行われました。
「父さん。僕がなりたいのは、動物のお医者さんなんだけど」
「………」
「………」
「………」
重たい無言の時間です。
総一郎の沈黙は、あきらかに困惑と動揺と控えめな反対の気配を孕んでいて、月くんはソッと溜息をつきました。
優等生であったうえ、周囲の期待とか、世間体とか、将来性とか、
そういう人生における煩わしいモノの重要性をも、ちゃんと正確に理解しているくらい、月くんは頭が良かったので、
「…ライト。獣医も立派な仕事だが、医者も立派な仕事だぞ」
躊躇いつつの総一郎お父さんのセリフに、今度は月くんが暫し沈黙したあと
コクリ。
頷いたのでした。
それからまたソッと、ひそかに溜息をついたのでした。
月くんの足元では歳をとっても見た目のあまり変わらないエルが、蹲ったまま会話を聞いていて
犬らしからぬ態度でやはりソッと、溜息をついたのでした。


月くんは現役で東応大学医学部に合格し、現役で医師国家試験に合格し、無事卒業後、研修医として
大学病院で働きはじめました。
医者の卵である研修医は大変です。激務です。でもOJT期間中なのでお給料は薄給です。
寝る暇もないほどの多忙を、愚痴も文句も口にせず、爽やかに月くんはこなしていきます。
月くんは器量も良いし要領も良いのです。
若くて綺麗で優しくてシッカリした白衣の似合うお医者様もとい研修医に、患者様たちは老若男女問わず
みんなウットリしました。
入院患者様方のあいだではファンクラブが結成されたり、観賞ツアーが組まれたりもしました。
オフィスの花ならぬ病院内のオアシスです。リゾートです。
月くんの人気は、なにも見た目だけではありませんでした。
研修中ではあるものの確かな診断、冷静な対応、丁寧な説明、親身な態度、毅然とした決断、
そして常に弱者側の立場に立った考え方に、信頼を寄せない人間がいる訳もありません。
もうひとつ。夜神先生には秘密がありました。
ソレは、患者様たちの噂話で、あっという間に院内に広まりました。
───気のせいなんかじゃないのよ?夜神先生の手に触れてもらうと、傷や病気の痛みがスーッと和らぐのよね。
痛いのいたいの飛んでいけ。ソレは月くん得意のおまじない。魔法の掌。
まさに神の手です。ゴッドハンドです。
病やケガに苦しんでいる者達からしたら、苦痛から少しでも助けられる事に対しての医学的根拠なんて、
大して必要ないのです。
信じるものは救われる。 
病院の廊下ですれ違ったおばあちゃんに、仏様よろしく両手を合わせ拝まれた時には
さすがの月くんも生ぬるい笑顔になりました、が。
そんなこんなで、優秀な研修医、人気のある医師は病院の宝でもあったので、先輩医師たちも月くんに一目置いて、可愛がり、
月くんの卒後臨床研修期間は大変充実したモノとなりました。
しつこい様ですが月くんは器量も要領も良かったので………
そうこうするうちに月日は流れ。
ある日、月くんは一人の医師と出会いました。運命の出会いでした。
医師の名は、竜崎と言いました。
エルだ!
ひと目みた瞬間、心のなかで月くんは叫びました。エル!また会えるなんて!
ボサボサの黒髪、クッキリ隈のついたギョロ目、湾曲した背中、爪を噛むクセ、
よく言えば野生的、悪く言えばヒトらしからぬ風貌に、月くんの視線が釘付けになっていると
竜崎という名の医師の両眼が、フと月くんを捉え、
ニンマリ…不気味に笑いました。
デジャビュです。おんなじです。
いつぞやの昔、公園で黒犬エルが月くんを見つけ、後を追っかけてきた時そのままの再現。
エルは、ちょうど月くんが大学の卒業式を迎え、夜神家でささやかなお祝いをしたその翌日に、
まるで月くんの成長を見届けて安心したかのごとく、安らかに息を引き取っていました。
病気でも事故の影響でもなく、きっと神様に定められた寿命だったのでしょう。
月くんは泣きませんでした。
哀しかったけれど。寂しかったけれど。
微笑んで、何回もなんかいも冷たくなったエルの黒毛を撫でながら
「ありがとう」と呟きました。
あれから数年。月くんは竜崎を一瞬、Lの生まれ変わりだとカン違いしましたけれど、モチロンそんな筈はありません。
竜崎は人間みたいです。一応。
月くんはよく知らなかったのですが、竜崎は、その道では世界的に有名な天才医師で、
つい先日まで海外に在住し、各国の最先端医療を誇る病院で治療・研究に励んでいたところを今回、大学病院側が
ツテをたよりに頼みに頼み込んで、引き抜きに成功したと。
院長の自慢半分エラそうな紹介説明を聞きつつ、月くんはパチリパチリ長い睫を瞬いては
やっぱりエルに似てるなあ…なんてノンキに考えていました。
すると。
月くんをジ───ッと眺めていた竜崎が(つまり二人はジ───ッと見つめ合っていたのです)
「よろしくお願いします」
突如、突拍子もなく、手を差しのべ握手を求めてきました。月くん  だけ  に。
その場に大勢集まっていたスタッフたちは、竜崎の気持ちは分かるけれども色々ビビリました。
院長もビビリました。長話の途中で中断されて、ちょっと可哀想でした。
「私は竜崎です。夜神くんの能力を見込んで、ぜひ研究に協力願いたい」
「もし貴方がそうなら僕の尊敬する人です。僕に出来ることなら喜んで」
何がなんだか分からない…そもそも会話の意味が分からない………
天才と秀才同士はガッチリ固い握手をするのでした。周囲を置いてけぼりにして、あっという間にお互いを
理解しあったみたいですよ。
「月くんの手は温かいですね。手当てのための手。本物の医者の手ですね」
握手したまま離そうとしない月くんの掌を、竜崎はさらにギュッと握り締めて言いました。
月くんは嬉しそうにニッコリ笑いました。
天才の竜崎は、月くんの掌の魔法にも、すぐに気づいていたのでした。
運命の出会いを果たした二人は、すぐに親友になりました。すぐに親友以上になりました。
竜崎は月くんに、
「臨床研修期間を終了したら、私と一緒に来てください」
と男らしくプロポーズしました。
「困るよ。父さん達になんて説明したら良いか」
「医者は多忙を理由にした独身者が多いですから、ホモでもバレやしませんよ」
「そう?」
多忙でも、それなりに複数お付き合いするガールフレンドのいた月くんは、そうかなあと首を傾げましたけれど、
竜崎がそう言うならソレでいいかなあと、アッサリOKしました。月くんは昔から素直な子です。
「もうすぐ月くんも一人前ですね。専門診療科には何を選ぶつもりなんですか?」
「ん。小児科」
「はあ。けっこう意外な選択ですねえ」
「だって子供は動物に近いだろ?
───僕、ほんとうは動物のお医者さんになりたかったんだよね」
それは、高校三年生で溜息とともに諦めて以来、けして口にする事はなかった月くんの本音。
懐かしいエルのぬくもりと共に、二度と。
「なにを言ってるんですか月くん」
竜崎は、至極真面目かつ飄々とした口調で、アッサリ言い放ちました。
「人間だって、動物ですよ?」
………。
キョトン。として。
綺麗な薄茶の目をパチクリさせて。
そして。ジワジワ月くんの形良い唇が綻びはじめて。その様子を見て、竜崎もニンマリし返しました。
「そうか。その通りだ。さすがだな竜崎」
「当然です」
「エルも竜崎も、同じなんだな」
「エルって誰ですか」
なんでこんな簡単な事。僕は分かっていなかったんだろう。
すべての命を救う。幸せにする。僕はそんな医者になりたかったんだ。
エルからもらった夢。竜崎から学んだ答えと目標。
大事に胸に抱えて、まっすぐな月くんはこれからも精一杯がんばろうと、キラキラ輝く瞳で、新たに心に誓ったのでした。
「ありがとう竜崎」
「エルって誰ですか」
「大好きだよ竜崎。エルと同じくらい」
「エルって誰ですか」
「しつこい」
「言わなきゃ今すぐ酷い事しますよ。内視鏡挿入しますよ」
「変態」
「私が…変態…」
黒犬エルによく似ている竜崎は、月くんにとって尊敬出来て、性格も合って、話も合って、師であり、ライバルであり、
親友であり、恋人であり、伴侶であり、大切たいせつな存在であり、
エルと同じに月くんの人生を決める運命の出会いをした、運命のひと。
大好きだよ。
なのですが。
夜勤で疲れた月くんが当直室で仮眠を取っているときに、竜崎がコッソリ忍び込んできては
アレコレ悪さをしようとするのだけは、
最初からお行儀の良かったエルと違って、一度ガツンと厳しく躾け直さなきゃなんないな、と。
やっぱり動物も人間もあんまり変わんないな、と。
月くんは誠心誠意、立派な(動物の)お医者さん目指して、今も勉強中の毎日です。